ほぼ足りてまだ欲 その先

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小学生の時

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 わがつれあいは、子どもの頃、と云っても相当に幼い頃の記憶がほとんどないと云っているんです。

何しろ私たちの子どもの頃は、前代未聞の子だくさんで、1946年生まれが157.6万人なのに、1947年生まれは2,678,792人と100万人以上多い。70%増です。なんでこの年からこんなに細かい集計ができているんだろうかと思うけれど、多分それまでは戦後の混乱期だったというわけでしょう。これが元の水準に戻るのは10年後、1957年になってからのことです。
 だから、もう幼稚園の時から子どもで溢れていたわけです。つれあいの地元では、小学校に必ず幼稚園が併設されていたんだけれど、とても希望者全員を収容することができなくて、つれあいは毎週木曜日一日だけ幼稚園に行ったというんです。そんなんで意味があったんですかねぇ。
 私の生まれは横浜だから、それほどでもなくて、その上、私はできたばかりの幼稚園に途中から入った、と云う記憶なんです。私は母親に連れられて見学に行った日のことを覚えています。木造平屋の園舎で、広い床張りのところに園児が10人ほどいただけだった風景を記憶しています。今から考えると猫の額ほどの園庭で、滑り台と、ブランコに砂場がありました。滑り台がとても高く感じたのですが、今見たらきっとかわいらしいものでしょうね。
 何か行事があると、写真屋さんが来て、「ボワッ!」とマグネシウムが燃えて光るのを覚えています。すぐに一発で真っ白くなって光る電球みたいなものになった記憶です。この幼稚園が午後遅くになると子ども達が帰ってしまうので、そこを使って、バレエ教室が開かれていて、うちの二人の姉がバレエを習いに行ったのを見ていたことが何回かあります。二番目の姉はこういうことが大好きで、私が5歳の時に引っ越した時のお手伝いくださった親父の職場の皆さんと一緒に写った写真に、その姉はバレエ用の靴を履いて映っています。
 だから、つれあいは幼稚園の想い出は全くないんだそうです。当然友達なんて記憶にないと。しかし、南の町内に引っ越した小学校以降のことは比較的よく覚えていて、あそこのうちのお姉さんが同級生だった、とか、ここのうちの男の子はとても勉強ができたから、教育大附属に行ったとか、いっています。
 私は小学校のことは断片的にいろいろ思い出すのですが、地元に暮らしていないせいか、同級生のことをほとんど思い出せないのです。あんまり同級生の町内に遊びに行くというようなことをしていなかった。というのも、引っ越す前に住んでいた社宅の子ども達と遊んでいたからではないか、という気がします。小学校4年の時に親父の仕事の転勤で、転校するまで、ほとんどの遊びはそこの連中とやっていました。軟式テニスのボールをワンバウンドさせて拳で打つ野球も、かくれんぼも、戦争ごっこも、下駄隠しも、缶蹴りも、砂場遊びも、みんな社宅の広場で社宅の連中と遊んでいました。社宅の人たち全員で運動会なんてしたこともあります。それだけ子どもに溢れていたんでしょうねぇ。
 その社宅は、1960年頃に払い下げられて社宅から個人宅になりました。ほとんどの人はそのままそこに住んでいましたけれど、今はもう誰が住んでいるのかわからなくなりました。
 ところが向こうの丘に住んでいた同級生の女子の家に遊びに行ったことがあります。多分たった一回だと思います。多分土曜日の午後だったような記憶ですが、二人いた彼女のお兄さんの記憶がないので、それがどうしてなのか、わかりません。上のお兄さんはとても背の高い人で、彼が6年生の時に、どこかから落下してなくなってしまったことを覚えています。あとから知ったのは、そのお宅は社宅だったそうで、私が転校したあと、その一家は転勤でシンガポールに行ったというのですが、なんでそれを知っているのかがわからない。しかも、その子は私が越境して通っていた中学三年の時、同じ中学の一学年下に転入してくるのです。私はそれに気がついたのですが、向こうは気がついていなかったはずです。それを伝えたいな、という気がします。多分それは叶わないまま人生は終わるだろうけれど。