ほぼ足りてまだ欲 その先

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袢纏を着た二人が

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吉村昭の「関東大震災」を読むと、かなり早い段階で、

二人の袢纏を着た男が自転車に乗って川崎警察署に来て、「今、鶴見の町に三百人ほどの朝鮮人が襲ってきた。町の青年団から頼まれて六郷方面に派遣中という軍隊に急報に来たのだが、警察にも知らせに来た。救援を望んでいるので、至急出動して下さい」と告げて去った。
この男の一人は、のちに神奈川県橘樹郡潮田町の潮田町造船所社宅に住む神野というものであることが判明し逮捕されたが、かれは事実らしい話を作り上げて警察に通報したのである。

 と出てくる。
関東大震災は1923年(大正12年)9月1日である。
この造船所というのはどこか。
1916年(大正5年)に浅野総一郎が現在の川崎市から横浜市鶴見区の沖合が埋め立てられた場所に、横浜造船所を創立し、すぐ浅野造船所と改名した。
1917年(大正6年)鋼材入手が困難になってきたので、浅野合資会社製鉄部を設立。翌年、浅野製鉄所と名前を変える。
1920年大正9年)浅野造船所と浅野製鉄所が合併。
1922年(大正11年)にはドライ・ドックを東神奈川先の埋め立て地に作ったが、翌年の大震災で石組みのドックは損傷を受けている。
だから、潮田町の造船所というのは、この浅野の造船所のことだ。
1936年(昭和11年)に鶴見製鉄造船と名前を変えたが、1945年には同じ浅野財閥系の日本鋼管と合併した。
今ではJFEエンジニアリングとなっているが、造船部門はユニバーサル造船となって、今ではジャパン マリンユナイテッドという会社になっている。かつての日立造船IHIそれぞれの造船部門と合併したもの。
もはや日本の造船業は風前の灯火といっても良いだろう。

ところで、日本鋼管の設立には、今をときめく渋沢栄一も一枚噛んでいる。今泉嘉一郎、大川平三郎、白石元治郎なんて名前が出てくるが、この人たちの子孫がそれぞれ、のちの日本鋼管にそのまま居たというのも不思議といえば不思議。浅野総一郎は「日本工業倶楽部に入れてくれ」といったが、渋沢栄一に「品がない」といって断られたという話がまことしやかに伝えられている。
ものの本によると、1934年(昭和9年)の日本製鉄結成に浅野系は加わらなかったので、高炉新設がなかなか許可されなかったという。そこから先、ずうっと戦後にいたっても新日鐵の後塵を拝し続け、最後には川崎製鉄に吸収合併されてJFEという何だかわからない会社になってしまう。