ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

高島屋のクリスマスディスプレイも、色は派手だが、随分安上がりになった。

 昨日までの天気とは打って変わって、今日は朝は寒かったけれど、お日様が出てきて、真っ青な空だった。やっぱり気も晴れるし、さぁ、出かけようという気分になる。今日の散歩はどこへ行こうかと思いながら家を出て、都営地下鉄の某駅に向かって歩き出した。あっちにしようかこっちにしようかと思いながら、結局銀座に出て、教文館に足を踏み入れる。何か当てになるものがあるわけでもない。
 ところが新刊書の棚を見ていると、鶴見俊輔の名前を見つけてしまった。

 随分振りかぶったタイトルで、幾分引き気味だったのだけれど、鶴見俊輔ファンだった私としては、まだ30代そこそこの京都大学で博士号をとった青年がどんな論評を展開するのかには甚だ興味があった。巻末の文献リストを見れば、鶴見俊輔の著作リストはもう要らないというほどである。ちょっと分厚すぎるし、値段も値段だったので、逡巡したんだけれど、これは多分知ってしまった以上、必ずいつか手を出すことになりそうだと思ったので、買ってしまった。

 20年ほど前に私も官報に載る行旅死亡人が気になって、追いかけるべきなんだろうなと思ったことがある。多くの場合ホームレスの人だと結論付けられるが、共同通信社会部の二人の記者が追いかけてみたのは、高齢で風呂もない家賃3万数千円のアパートで孤独死した女性が3,400万円もの現金を残していたことから、その人の過去を洗うという話。広島出身で大阪に出てきてからあとが全く空白のままであった。誠に明らかにされる話なのかと思って読んでしまった。
 こんな大金を残して孤独死をする人は珍しい。その多くは誰にも看取られず、一人でこの世をさり、あとには何も、一銭も残っていない人たちばかりだ。一度官報で行旅死亡人を見て欲しい。

 文庫のくせに760頁を超え、値段だって税別で2000円もするような鈍器文庫本なんぞ買うか、と思っていたんだけれど、これとて、必ずや将来的にどうしたって手を出すに違いないわけで、避けて避けていても、書店に行くたびに、横目で見るのも面倒だと思った。
 あぁ、どうしたらこの生活から脱することができようか。

 大阪の古本屋から到着した。そんな事をいっては申し訳ないけれど、随分つたない表書きの割には非常に丁寧な包装で届いた。ドウス昌代澤地久枝の往復書簡だという。

 13時半頃に日本橋に向かって歩き始めた途中で、ひょいと三州屋銀座一丁目店の窓から中を除くと、たしか8つある白木のテーブルにお客が4人しかいなかったので、ようやく決心をしてコロナ以来避けてきた海鮮丼を食す。筋子生しらすが載っていたが、以前は定番だった雲丹は載っていない。私は別に好きでもないから構わないが、あまりにもひさしぶりに発注したものだから、御飯の量を減らしてもらうのを忘れ、食べきれなかった。一体、最後にここで海鮮丼をいただいたのはいつだったのだろうか。しかし、値段が1,500円にもなっていたのには流石に驚いた。あのおばさんがいなくなってから一体何年経ったんだろう。