アジア・太平洋戦争中、米国西海岸地域に住んでいた日系米国人とその親たち約12万人が根こそぎ住んでいた街から追い出され砂漠のど真ん中や、無毛の地域に建てられたバラックに隔離された。もちろん鉄条網と武装看守に囲まれて。そんな時でも移民一世たちの口癖は「しょうがない」だったそうだ。
天災に襲われて自宅に暮らせなくなった時、体育館に雑魚寝をし、弁当を配給され、プライバシーのない中で、さまざまな恐怖に駆られながら暮らし、ようやく移れた仮設住居でも狭いところに押し込まれて暮らす。そんな時、私たちはテレビでそれを見ても、災害時なんだから「しょうがない」と思っている。周りを見ないでいると、それはしょうがないんだと最初から諦めている。よその国がどうなっているかも知らないし、そんな時に知ってもしょうがないと思っている。
アフリカの砂漠のど真ん中に仕事で行った時、準備段階で何が必要かを見積もっている時、私たちは、仕事なんだから、そして何にもない、街から120kmも離れたところなんだから、コストを下げるためにもこんなことを我慢するのも「しょうがない」と思っていた。
そんな時に、それまでいくつかのプロジェクトに従事したことがある先輩が言った。「ちょっと待て。なんで君らはハナから、しょうがないと思っているのか」と言ったのだ。それではこれから先、この会社での仕事は前向きにならない。私たちが考えるべきは、いかにしたら、日頃の生活と変わらない環境を維持することができるかの工夫だよ、といってくれた。それで私たちは目が覚めた。
旧日本軍には兵站にはとことん軽んじてきた形跡が見える。何しろ食料は原則持っていけるだけで賄い、それ以降は進駐した先で適宜調達するべしだった。つまり、地域の食糧で賄え、ということだ。買い上げるのかというと、戦後紙屑になった軍票で支払ったり、殆どは徴発と称して取り上げて賄った。したがって当然地元民との間では騒動になる。というか、一方的に取り上げる。
太平洋で戦った相手である米軍は派遣軍を一定期間で交代させ、本国に帰して、あるいは安全な地域で休暇を取らせたし、軍服を含めた装備も新替えされた。もちろん食料も前線ですら最悪糧食パックが配られた。日本軍は「しょうがない」でボロボロになり、餓死し、病死した。それで誰か責任取ったかといえば、誰も取っていない。戦犯として処刑された旧軍人はいるが、それは連合国が処刑したのであり、日本という国として、責任を取らせたわけではない。生き残った軍人の多くは戦後の朝鮮戦争に際して組織された警察予備隊から、そのまま自衛隊になった人が多い。空襲で家族全員を失って孤児になった人が一体何人、どんな人生を送ったのか、誰も検証していない。中国に取り残された人たちは全員国から補償されたのかといったら全くそんなことはない。「しょうがない」戦争だったんだからとみんな思って来た。あの戦争の時に威張り腐って人の面を平気でビンタして来た連中はそのままで、やられた国民は「しょうがない」のか。進駐した先の各地で現地の人たちが「バカやろー」なんぞと言われてむげなくされて来たのは「しょうがない」のか。
天災の時に耐え忍ぶのは「しょうがない」のか。仮設住宅を建てるのに数ヶ月かかるからねと平気で言っている石川県の知事の言っていることは「しょうがない」のか。もう原発がぶっ壊れたあれからこんなに時間が経っているんだから、避難住宅はおしまいにする!と東京電力や政府がいっても「しょうがない」のか。
ふざけるな!