池谷薫監督の話から;
- 7月には新潮社からこの映画についての著作を刊行することになっている。画面では語り尽くせないものがまだまだある。(この辺はどうもテレビの番組で全てを語り尽くせなかったと本を出す立花隆と同じである。)
- この映画のプロデューサー、権洋子は池谷薫監督の奥さん。
- 2004年に奥村和一と池谷薫が出会う前から奥村和一は何度も山西省にいっており、「行かなければならないという思いで行き続けた」と語ったそうだ。初めてあったすぐ後に奥村から池谷には段ボール3杯分もの資料がどっと送られてきたそうだ。「この爺さん本気だなぁ」と思ったという。
- 撮影で出かけた2005年5月は22日間中国に滞在した。
- 閻錫山は日本の陸軍士官学校の卒業生である。
- 全国山西省残留者協議会として機能しだしたのはほとんどの人が定年を迎えてからのことである。
- 「戦争というものは人殺しが死ぬまで続くということなんだ」(池谷薫)
- 小野田寛郎がいう「開戦の詔書を読んだのか」こちらで「開戦詔書」を発見。
- 「戦後60年の間、私たちは何も決着をつけずにここまでやってきてしまったことに問題がある」(池谷薫)
- 「国家とは大きな嘘をつくものである」(池谷薫)
- 2600人の兵のうち、200-300人の人たちがまだ生きている。
- 奥村和一には発信をしていくことについての執念を感じさせる。
- 奥村は中国に行くとまず解放軍の墓参りをする。しかし、日本兵に対して参りということをしてこなかった。しかし、あの日本が籠もっていたというトーチカではなき戦友に対して「また来るからな、来られたら・・」と初めて言い残した。
- 日本軍によって輪姦されたという女性に出会った時に、奥村和一は戦争中のことを一切妻にも話すことが出来ないというと、「もういいじゃありませんか、お話しなさい」といわれ、奥村は帰国後妻にようやく戦争中の話をしたのだという。
- 処刑された中国人の子どもと孫に会う場面で、その処刑された中国人が日本軍が管理していた炭鉱の警備の人間だと知ると、奥村和一はそれまでの表情と異なり、八路軍がやってきた時に闘うこともせず逃げ出した警備の中国人は敵前逃亡なんだから処刑されても当たり前だ、といわんばかりにまくし立てる。そして、その帰路ぽつりと「興ざめでしたな・・」と漏らしたのだという。奥村和一ですらそうした感覚になってしまう。戦争とはどうしても現場にいればそう傾いてきてしまう。
- 自分が戦場におかれて、奥村と同じような状況に晒されたらどうするだろうかと考えると、やっぱり同じように銃剣で目をつぶりながらかも知れないが、罪なぞ何もないかも知れない人を刺す可能性が充分にあるだろう。だからこそ、戦争を肯定するスタンスに立ってはならないのだ。
- 「私たち学生はどうするべきなのか」という質問に対して:「まずは関心を持って貰うということではないでしょうか。とにかく知ろうとして貰うことが必要です」
他にも池谷はたくさん語ったのだけれど、自分のノートにこれ以上の記録がない。申し訳ない。