ほぼ足りてまだ欲 その先

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浅草寺

 ある集まりが午後からあって、滅多に見られない金龍山浅草寺五重塔の中、伝法院のお庭に入れて頂いた。なにしろ伝法院は戦災にも遭っていないというのだから二百年は経っていようと云うもの。ご案内をしてくださる方がおられたので、とても有意義な午後であった。
 その方のご案内で知ったことがいくつかあった。久米平内というひとを祀った小さなお堂が宝蔵門に向かって右手にある。このお堂があることは知っていたが、久米平内という人物が誰だったのかを知らなかった。津和野の生まれである平内は15歳の時に殿様の鷹狩りを手伝い、猪が殿様に向かって走り寄るところを右手の拳にてこの猪を打ち付けて殿様を助け、五十石で小姓に取り立てられる。21歳で両親を亡くし、諸国武者修行をかねて江戸に向かう。平内は正義感がめっぽう強く、その旅の途中でも何人もの悪者を懲らしめ、その噂は本人よりも先に江戸に到達していたというくらいである。柳生道場に入門を志願したが、柳生十兵衛はいきなり鉄扇を投げ、平内これを刀の柄にてよけ、双方が数時間にらみ合ったといわれる。入門を許されたが同時代の門弟荒木又右衛門が平内には勝てなかったという話が伝わっている。当時力を振り回していた旗本奴ともなんども衝突し、平内は幡随院長兵衛とも義兄弟の契りを交わしたといわれている。平内は悪を懲らすためとはいえ、何人もの人を手にかけてきたことを悔い、自らの石像を人通りの良いところに埋めてみなに踏みつけて貰いたいと残したという。その「踏みつけ」が「文付け」に転じて縁結びとしてお参りされているんだそうである。ご案内くださった方が、もっと久米平内は知られても良いのではないかと残念がっておられたのである。
 次に滅多に見られないものとして五重塔の中にある絵馬を見せて頂いた。それでも焼けた時に一緒に消失したものがいくらもあったとはいうものの、いくつもの力作の絵馬が保存されている。そもそも馬を神様の乗り物として奉納するという意味で板に描いたり、彫刻した馬を奉納したという。場所だけに「新吉原仲之町伊勢屋志う奉納」(文久二年1862年)なんてものがあったり、谷文兆の手になるものがあったりで、それは見応えがあるものばかりである。
 最後に伝法院のお庭に入れて貰う。浅草寺に通い出してから既に30年を超えるが伝法院のお庭は初めて拝見する。生憎と手を入れているところでという話で、池の向こうには渡れなかったけれど、やっぱり立派な回遊式のお庭である。時あたかも月例の読経会が催されていて多くの善男善女が太鼓に合わせて読経をあげているところは迫力満点である。
 この回で久しぶりにお会いした先輩がお持ちだった袋に永六輔の父親で最尊寺のご住職だった忠順さんの句が書いてあって、私はこれに痛く感動したのであった。
 「釣り銭も 少し濡れてる しじみ売り」