ほぼ足りてまだ欲 その先

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祀る

 靖國神社は明治以降日本の軍隊に所属した人たちの中で殉職した人々を神として祀ってあるわけです。これについてはいろいろいいたいことがあるけれど、ま、それは今は置いておきましょう。
 明治神宮っていうのはいうまでもなく、明治天皇を祀ってあるわけですよね?
 浅草神社というのは浅草寺のご本尊を川から(海から?)引き上げた三人の人たちを祀ってあるわけです。
 だから、靖國神社にお参りするってことは、中に祀られている人たち全員をあがめ奉り、凄い、エラい、平身低頭、拝みに行くって事になるわけですね。だから靖國神社では、東條英機から、知らないうちにそうなっているらしい戦地での売春宿の経営者まで、皆が集いて、列を作ってあがめ奉っているわけです。
 日本で初詣としてもっとも多くの人がやってくる明治神宮は(2013年の記録ですが)313万人ほどだったそうです。それだけの人たちが明治天皇はエラい、凄い、ってんで諸手を挙げて遙拝しに来るわけですよ。凄いなぁ、明治天皇信仰とでもいうのでしょうか。でも、ほとんどの人たちは自身が拝んでいる、凄い!といっているのが一体誰なのか、ということがわかっているのかといったら大変疑問だという、不思議な風習でございますよねぇ。
 浅草寺には2013年には281万人ほどが初詣にお越しになったんだそうです。しかし、あれ?ここはお寺でございます!ほとんどの方々が本堂にお参りして、(私は見たことがないですが)小さい小さいといわれているご本尊に頭を垂れておられますね。しかし、ほとんどの方はその横にある三人の漁師を祀った浅草神社には目もくれずといいますか、気がつかずといいますか、そのままお帰りになります。
 そうか、初詣ってのには神社だけでなく、お寺さんもその対象としているわけでございますよねぇ。それは先祖の墓にお参りするのと一緒でございますなぁ。多分、よく知りませんが。
 しかし、信仰心というのは大変に面白いものでして、その対象がどこのなんの神様だろうと、お参りをすると、とてもすがすがしい気持ちになるものでございますし、なんだか、自分が洗われたような、そんな気持ちになるものでして、よろしい風習です。しかし、それをすることができるというのは、むしろ自分にある程度の自信がある、ということの表れではないか、という気がしないでもありません。自分がどうしようも無い状態の時に、あぁ、もうどうしようもない、どうでも良いや、と思ったときにはなかなかそうした場所に赴いて、柏手を打って、感謝したり、お願いしたりする余裕すらなくなります。現実のこの世でもどうしようもないんですから。これはいろいろ考えちゃう範囲が広がっていきそうですねぇ。
 で、そもそも、讃え、あがめ奉るところですが、ほとんどの人がお賽銭を奉納して、その見返りに守ってくださいとか、こういうことが完成しますように、とか、良いことが自分にやってきますようにてんで「お願い」に行くんですよねぇ。家内安全とか、商売繁盛とかってね。
 合格祈願なんてのもありますね。菅原道真って人を祀ってある神社にいって絵馬なんかに「合格しますように!」なんて書いています。菅原さんがどうして有名大学に合格するに付いての力をお持ちなのか知りませんけれど、たくさん書いてありますよ。あがめ奉るのはわかるけれど、そんなお願いして助けになるってことでしょうかねぇ。
 まぁ、そんな疑問を持つ輩は来なくて良いよ、って事ですが。宗教なんですからね。