ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

なんでこうなんだろう

 西岸良平原作の「三丁目の夕日」がやっぱり今回も評判だ。先週末の封切りの土日で動員観客数が45万人だとか、最終目標が1000万人だとかと聞く。東宝のお偉いさんのウハウハ状況が目に浮かぶようだ。さぞかしこれまで以上に鼻息を荒くしておいでのことだろう。これまででも相当に鼻息荒いけれど。
 となると、私はなかなか足が向かなくなる。ただ単にへそ曲がりで、天の邪鬼で、人が儲けている、受けているとわかったら、「何も俺までそんなことに与しなくても良いだろう」と背中を向けてしまう習性にあるからだ。これでこれまでにどれほど損をしてきたことだろうか。しかし、それがわかっていてもそうできないのだから、人より儲けるとか、人より褒められるとか、人より名誉をえるとかって状況にならなくてもそりゃそれでしょうがない。わかっていながら、そうできない奴だったのだからしょうがない。しかし、どうしてそうなってしまったのだろうか。いつからこうだったのだろうか。
 私は中学一年生を終えてから地方の私立中学から東京の公立中学に転校した。私立だったとはいえ、地方のことだからそんなに詰め込み教育ではなくて、のんびりとした地方の少年の生活を楽しんでいた。なにしろ学校の帰りに一駅分歩いて田圃の畔に行き、パンパンに膨れた(どうして私は中学・高校であんなに鞄を膨らまして通っていたのだろう)鞄や学帽、学生服を放り出し、靴を脱いで、ズボンをたくし上げ、フナを追いかけていたりしたんだから、これを楽しんでいたといわずになんといおうか。東京の公立中学は当時、都立高校が学区制で、進学者にとってはその予備校化していた学校とそうでない学校がはっきりしていた。それでも中学を卒業して就職するものは珍しいわけではなかった。私の中学の学区はいわゆる山の手から下町までとても広い範囲を抱えていたから生徒のバックグラウンドも種々様々だったということなんだろう。で、卒業する頃には私はどう見ても「山の手地区出身」で「勉強もできる方」の主流派ではなく、「なんでもありで進学者も就職者もいる」が「成績は上の下から下」という反主流派の中にいた。つい、先日もクラスの主流派だった渡○君、佐○君、大○君、長○部君、渋○君、馬○君なんかが彼らにしか通用しない言葉を駆使して私に辛く当たるという夢を見たばかりだ。なぜか知らないが彼らの名前と当時の顔は今でも詳細に思い出すことができる。
 主流派はそれでなくてもそれだけでその場を牛耳っていてその場の価値観を左右する力を持つ。主流派の論理が正論だということになる。反主流派はそのままではどんどんじり貧になる。正しいことをいっていても、「世の中はそんな論理で動いてはいない」というひと言で切り捨てられる。どんなに人であるがゆえに正しいことであってもだ。受けている、売れている人、物、事象に関しては誰もが拍手を送る。そうだったらなにも私までそれに加わって拍手するこたぁないじゃないか、というのが私の曲がった習性なんだろう。
 テレビでの宣伝やネット上に存在する「三丁目の夕日」の予告編なんかを見ると画面全体がセピアかかっていて、そこに登場する広い空が当時の様子をあからさまにする。「懐かしぃぃ〜」とその雰囲気に浸りきってしまう。ちょうどあの当時、私は東京ではなくて、地方のそれも海辺の町はずれに暮らしていた。だからあの頃の東京という時間と空間を共有はしていない。それでもおおよその見当はつく。
 私が暮らしていた地方の空は(もっとも東京だって大差なかったけれど)限りなく広く、冬の季節風は遮るものが何もなくて、容赦なく吹き抜けた。それでも畑のはずれの道具入れの朽ちた小屋の陰で風をよけながら日向ぼっこをするとこの上なく暖かかった。砂地の畑のはずれで相撲を取ったりすればすぐに暖かくなるし、お日様でぽかぽかになった砂は裸足に心地よいものだ。海辺の一角ではそんな季節には蜜柑の缶詰工場から運ばれた蜜柑の皮の日干しが行われていて、その甘酸っぱい匂いが辺り一面に「冬だねぇ〜」と告げていた。こうした蜜柑の皮は飼料になるのだとか聴いたことがある。私は昭和32年の秋から昭和36年の春までそうした実に恵まれた環境の中で育った。しかし、その3年半もそこでは私は主流派たり得なかったわけだ。
 ここから私は始まったのかもしれない。