ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

これでも?

 携帯型ゲーム機の普及はものすごいものがある。いよいよ夏休みになって子どもがパブリックに一挙に出てくる時期になった。すると手に手にそうしたゲーム機を持ってやってくる。あっちでもこっちでも下を向いて動かない子どもを見る。なにをしているのかと見ると高い比率でゲームを手にしている。いい年をした大人でも電車に乗って来るやそういう類に目が釘付けである。彼らはその上耳にはイヤフォン。だからちょっと声をかけてよけようとしてもその人の耳にも届かないし、ましてや目もそっちに釘付けだから他には注意は向かない。つまり、パブリックにいても周囲への関心どころか、すべてを遮断しているわけだからコミュニケーションもへったくれもない。
 テレビを見ていると(本当に私はテレビ人間となりつる・・)、むくつけきマッチョがまるで「ランボー」のような雰囲気でバリバリ、ズギューン、バッグゥ〜ン!と相手を撃ち殺しまくるというなんとも見ていられないほどの乱暴なゲームソフトの広告が繰り返し、繰り返し流される。
 それまで滅多に見られなかったような残虐な事件が起きると、必ずそうしたゲームの弊害についての論議となり、それに対してそんなものが影響したという科学的照査は充分ではないし、ましてそうしたものを規制すること自体が、表現の自由を侵害しているという反論がでる。表現の自由を確保することはとても重要なことで、私たちの歴史を振り返ると下手なことはいえない時代が確実にあったことを考えるとなんの異論もない。
 しかし、価値判断能力が未だ形成されていない状況にある子どもになんのフィルターもなしにそうした情報をどんどん提供することへの規制が果たして「表現の自由」を侵害していることになるのだろうか。
 「表現の自由」を確保するためには一切の規制があってはならないのだ、何事もはじめの一歩なんだ、という論理はわからないことはない。これまでの歴史を振り返ると、そこからやらずぶったくりにほとんどすべての自由が奪われた経験の記憶は恐怖をかき立てるし、それを忘れてはならないことは何度繰り返しても間違いではないだろう。
 かつての子どもだって、チャンバラごっこをしたじゃないか、戦争ごっこをしたじゃないかという声も聴く。しかし、その中身の程度問題が違いすぎる。チャンバラごっこや月光仮面ごっこは下手をすれば、本当に腕に棒が当たって痛い目をみる。すると、一瞬周りはみんな凍り付いて、「タイム」がかかる。泣き出した奴をそいつのうちまで引っ張っていき、「おばさぁ〜ん、○○ちゃんの腕に棒があったったぁ〜!」と叫ぶ。みんなで「ごめんなさい」をする羽目になる。それでもやっぱり、翌日には誰かが風呂敷を首にくくりつけて月光仮面をやる。痛かったダメージを知ることになったし、やっぱり「嘘ン気」でやらないと入れてやらないとお触れがまわった。つまり、自分も相手もどこまで行くと「ことは重大」になるんだという点を学習しながらチャンバラ、戦争ごっこをやってきた(もちろん子どもはそんなことを自覚なんてしていなかったけれど)。
 その点でいえばゲーム機で経験させてくれる世界は自分の手に伝わる手応えもないし、それが再現できたとしても生身のものではない。どんなことをしたら相手がどれほどの痛手になるのかは全く関係がない。どんなに技術とハードが発達してもあくまでも疑似世界のことだ。
 これでもやっぱり・・・・。