ほぼ足りてまだ欲 その先

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百年インタビュー

 25-26日そして26-27日の「NHK ラジオ深夜便」の午前4時からは「百年インタビュー ワールドカップ、日本優勝の夢」というタイトルで随分前に当時まだNHKの職員だった堀尾アナウンサーがテレビの番組として川淵三郎にインタビューした番組の音声放送だった。前半は知らなかったけれど、今朝早朝に後半は聴いてしまった。
 昨日は夕飯を食べてから21時には寝てしまい、真夜中に目が覚めた。なんだかんだとしているうちにあっという間に時間は経ってこの番組になった。
 川淵は2050年には日本がワールドカップで優勝するんだといってきたんだそうで、生きていれば彼は114歳になるわけで、あながち生きていないこともなさそう。
 私が生まれて初めて彼にいつも遊びにいっていた銀座泰明小学校前のジャズ・バー「JAZZ COUNTRY」で遭遇したのはまだ1980年代終わりのことかも知れない。その時のことは全く覚えていないけれど、その後、例の釜本の裸体ポスターで話題になっていた頃、なにかの打ち上げで広告代理店の連中と遊びに来ているところで遭遇したことがある。
 彼はイタリア・ワールドカップNHKの解説者として出かけている。当時私はサッカーには殆ど縁がなかったけれど、自分の会社のサッカー部の試合を見に行ったことがあったのは、同僚に元サッカー選手がいたからで、そいつがしきりにどうしてもイタリアにサッカーを見に行くんだといっていたので、そんなにすごい大会なんだと初めて知ったくらいだ。
 川淵三郎がそのイタリア・ワールドカップから帰ってきて、そのいつもの巣に遊びに来たときに、イタリア人の若い女性を伴ってきて、一体何事かとみんなで冷やかしたが、その女性はそれ程流暢でないにしても日本語を喋り、クルーの通訳を務めてくれたひとだということだった。その時にこれを土産にやるよと、大会記念のポッケット・チーフをもらったのだけれど、その価値を殆どわかっていなかった私はそのチーフを映画会社の友達の宣伝用ジャンパーと交換してしまった。
 そこから川淵はJリーグの立ち上げに向けて突っ走っていった。それまで日本リーグの常連だった私の会社のサッカー部がJリーグに参加しないどころか、不況に依って解散してしまったのはとても残念だった。彼の話には良く奥さんと娘さんの話が出る。Jリーグが始まった翌年には彼は、なんのタイトルだったか忘れたけれど、Man of the yearのような表彰を受けた。そのパーティーに家族で参列したんだといってその足でいつもの「JAZZ COUNTRY」に顔を出した。みんなで歓待したものだけれど、以前に比べてすっかり著名人となってしまった川淵にみんなが遠慮する雰囲気で満ちていたものだから、へそ曲がりの私はご家族を前にして、「川淵さん、収入はどっと増えましたか?」と大声で聴いて周囲の顰蹙を買った。その後事務所が移ったこともあって、彼はその店に殆ど顔を出さなくなった。
 ジーコの話になったときに、あのドイツ大会で豪州に負けた翌日、ジーコが外国人コーチ連中といたところへ、川淵がいくと、ジーコは日本語で「ごめんなさい」と川淵に告げ、川淵はジーコと抱き合ったのだという。話がそこに来ると川淵は言葉に詰まり、泣いた。ジーコは決してそんな言葉を口にするタイプではなかったのだと通訳から聞いたそうだ。
 そういえばインタビュアーの堀尾正明岡田武史川淵三郎と同じで早稲田大学の出身。