こんな話を始めるともう人生を振り返っているばかりで、そろそろその終末期を迎えつつあるということだなと思うけれど、今のうちに書いておかないともう思い出せなくなっちまうから書いておこうと思った。
横浜元町
横浜には住んでいたけれど、当時住んでいたのは東横線の反町で、昔は根岸線なんかなかったからあの辺に行くには桜木町あたりから市電である。麦田のトンネルの手前で降りれば元町の入り口だ。だからガキの頃には行ったことがなくて、長ずるに及んでデートなんてものをしようだなんて生意気に思い出してから、行き始めたようなものだ。だから、当時の元町を歩いたって、手が出ないものばっかりで、ただただ眺めるだけ。松下家具店の作りの立派な家具を見て、そのそばの古道具屋で長火鉢を眺め、なけなしの金をはたいて「シェルブルー」で炭火焼きと書いてあるハンバーグを食べた。
喜久家でケーキを誂えるったって滅多に買った記憶もない。「ポピー」に至っては本当にただただ眺めてため息をつくだけだった。当時のあの8万円と値札の下がった茶系の千鳥格子のジャケットは一体誰が買ったのだろう。確かボタンがくるみボタンだったような記憶がある。
就職祝いに「若松屋」のシャツの生地を貰った。持って行って自分の好きな生地と交換して貰って丸襟のシャツを誂えた。多分就職してから採寸が残っているからと3-4枚作ってもらった記憶がある。当時、丸襟のドレスシャツなんて出来合いでは売ってなかった。今でも殆ど見ないなぁ。嬉しかったなぁ。大人になったな、という気持ちになった。それが生意気の走りだったかも知れない。
横浜中華街
もう何年もあそこに行かない。まだ我々こどもが小さい頃は、わがやでは良く「太平楼」というお店にあがった。木造の二階建てでぎしぎしいう階段を上がると廊下に面していくつもの部屋があった。多分親父が商売のお客を連れてきていたのではないだろうか。ここの名物はウズラのたたきという料理で、いってみればうずら肉の挽肉を甘辛に炒め、油で揚げた春雨と一緒に絡めてレタスに包んで食べるというような料理だった。あれが本当にウズラの肉だったのか、幼い私がわかるわけがない。それでも生意気に「ウズラの叩き」を頼むのが嬉しかった。
なぜか親父が餃子だとか酢豚といったよくあるものを頼まずに、そんな類のここでしか食べられないものばかりを頼んでいたようで、その後自分の家庭を築いてからも、その頃は殆ど人の口に上らなかった市場通りの「四五六菜館」で、そうした普通のものは頼まなかった記憶がある。何年か前に久しぶりに行ったら「四五六菜館」がとても大きくなっていて驚いた。「太平楼」はもうとっくの昔にない。
長姉が結婚した相手が「中華料理は嫌いだ」なんていったものだからあれからわが家の団らんがなくなってしまったような気がする。あの「太平楼」が大好きだった私は、私の嗜好を誰も慮らずに、よそから加わってきた義理の兄貴の意見が通ってしまって、あの団らんがなくなったのが許せなかった。ホテル・ニュー・グランドのビーフ・シュニッツェルなんてものは下世話なわが家にはあいっこないんだ。「ウズラの叩き」じゃなくちゃ。
中華街では、学生時代に一緒にゴールデン・カップに行ったりした友達の結婚披露宴にも出席した。面白い点心がたくさん出てきて嬉しかった。ドイツから来た人の横浜案内をしてあのひと頃行列ができていたお粥屋に連れて行ったこともある。彼はさぞかし今でも驚きを喋っているかも知れないな。
今、あそこの通りは肉まんやばっかりだ。
楽器屋
私が高校生の時に突如としてエレキブームがやってきて、気がついたときにはもう既にその流れに席巻されていて「そんな奴は不良だ!」とオヤジに殴られたりなんかするというその辺の餓鬼の一人だった。当時大井町の高校に通っていて、駅から学校に向かう途中の商店街に、丸井に吸収されちゃった割賦販売の緑屋があった。そこの鍵のかかったショー・ウィンドウの中に銀ラメのEchoギターがぶら下がっていた。なんであの店にあのソリッドがあったのか未だに謎だ。あのギターは昔シャドウズが使っていたのを写真で見ていたけれど、テレビで見たのは寺尾聰が入っていた「The Savage」というバンドが「勝ち抜きエレキ合戦」に出てきたときだった。
楽器ならばと銀座のヤマハには良く入った。あそこのショーウィンドウにはFenderのストラトもGibsonのフル・アコも入っていた。そこから山野楽器に回り、最後は十字屋に行って一回りだった。ヤマハのそばに他にも楽器屋があったんだと最近友人がいうのだけれど、それが思い出せないのだ。
ライブのお店としては何度も書いているように銀巴里には数回入っている。しかし、もっといったのは銀座ACBだった。丸いステージで裏表に二つのバンドのセッティングがしてあってそれが回ってバンドが交代した。その丸いステージの手前には多分ファンが詰めかけないようになのか、池がしつらえてあった。そこにかまやつひろしはマイクを落としたことがある。同年配の人たちと話すと、じゃ、美松には?と必ず聴かれる。いったことがない。多分当時日本のジャズには全く興味がなかったからなんじゃないかと思うのだけれど。当時飛ぶ鳥を落とし続けていたナベプロが日比谷に作った「メイツ」という(今でいう)ライブハウスには布施明ファンだった当時のガールフレンドにつきあっていったことがある。今でも布施明の歌を歌うときにメイツを思い出す。
打楽器の専門店というのは当時は殆どなかったけれど、池袋の北口におじいさんと中年の息子がやっている店があった。当時打楽器をやっていた連中に聴くと概ねみんな知っている。「モリダイラ」といっただろうか。あそこでは打楽器だけではなくて、仕事があったときにマイクが足りなくて仕入れにいった記憶もある。安いけれどパフォーマンスの良いものを教えてくれた。それなのにジルジャンを買ったのは渋谷のヤマハだった。先輩が紹介してくれて少し負けてくれたんじゃないかと思うけれど、当時1インチあたり千円という値段だったような記憶がある。
今の若い人たちが平気でGibsonの335やらレスポールやら高い楽器を誰も彼もが持っているのを見ると、羨ましいような、妬ましいような、それでも思い入れだったら我々の年代の方が強いんだぞと、なんのスケールもないところで勝手に決めつけている。本当にそうかどうかわからんだろうに。
テスコだ、グヤトーンだ、ELKだ、Fernandesだとコピー楽器が飛び交っていた。