ほぼ足りてまだ欲 その先

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地域のOB会

 久しぶりに学校の地域OB会に顔を出した。幹事の方がマメな方らしくていつまでもしつこく案内をくださるからである。なんのしがらみもなくて、同行する仲間もいなくてこんな会に顔を出すのは私としては大変に珍しい。学校からも幹部が来て、周りの会からもそれぞれの会の幹部が来てこの会ができてからの40周年をお祝いするという日だったという。
 こういう会は現役時代に体育会系のサークルに所属していて上下の関係がある人たち、仕事で地域を対象とする職務に就いている人たちという方々が殆どのようで、私のようにたったひとりで参加する人というのはいないようだ。
 学校の幹部は口を開けば寄付の話で、やっぱり彼等にとっての学校は職場であるし、卒業生たちのノスタルジーをくすぐってまだまだ金を引き出させるというやり方に長けている人たちが重要なようだ。その割には卒業生の本当の意味でのホームとは何かを考えていないようだけれど、そんなのは洋の東西を問わないのだろうか。
 今の日本の大学という存在の意味を考えるといわなくてはならないことがいくらでもあるけれど、金儲けのための手段として学校法人を運営しているのに違いないと思われる大学は掃いて捨てるほどあって、そうした学校法人が早晩辛い目を見るのは当然だろう。ではその時点で在籍している学生はどうするのか、という問題が語られるけれど、ではその学校がなかったとしたら学生とならなかった人たちはどうなっていたというのだろうか、ということにもなる。そうした大学の特徴は入学選考がとてつもなく簡単だったりする。それはそれで良いかもしれない。しかし、そうした学校は卒業するのも簡単だったりする。
 それは時代の流れだからしょうがないといういい方を良くされるけれど、そうした学校の日常は恐ろしいほどに低次元化されている。授業が面白くないからだという言い訳はずいぶん昔から繰り返されている。確かに、そんなものは文献を読めばわかるじゃないかという進行をする人はいるけれど、その分野に興味がある者にとってはそれでも題材が題材だから興味は尽きないはずだ。自らが著した本を持ってきてその解説をするという授業が一番つまらない。金を出した甲斐がない。折角自分が興味を持っている分野のドンぴしゃの授業を見つけて行ってみたらそんな授業だった時にはその本を投げつけて帰りたいくらいだった。それでも悔しいし、もったいないから最後まで聞きに行った。
 自分が若かった頃のことを棚に上げていうけれど、そもそも自分が進学した学部が本当に自分が興味を持っている学部なのかどうかといったらそのミスマッチは巷にあふれかえっている。だから多くの場合、何を勉強したのか、どんな先生についたのかというのは卒業をしてからはさほど意味をなさない。そうした人は枚挙にいとまがない。私も全くその通りだった。やっぱりこうした教育の機会はいつでも広く拡げられていて「今、この勉強をしたい」と思った人間がそれを実現できるシステムを作ることが必要だろう。今でも分野が明確な教育機関に行くとそうして苦労しながら学校に入り直して勉強し直している人たちに遭遇することがある。彼等のひたむきさを見ているとうまくやり遂げて欲しいなぁと思う。そうした人たちに資する学校として母校が存在してくれると良いのだけれどなぁ、という感を強くした夜だった。