私は非常に中途半端な本好きである。「である」というほど大したモンじゃない。なにしろ文学者でもなければ、研究者でもないし、その上実践家でもなくって、じゃ、なんだよということになるけれど、一体なんだろ。隠遁者といういい方がかなり近いのかもしれないけれど、それほどの思想があるわけでもないし、独特な哲学を持っているのかといったら、とんでもない話で、哲学の「て」の字よりかは大手町ビルの鰻の「て」の字の方がなんぼかありがたがる方だ。そういえば大手町ビルはまだあるらしいが、あの界隈じゃ早晩また建て直すことになるんじゃないのか。今のうちに写真を撮っておかないといけないかもなぁ。
いやいや、それで私は月給泥棒さながらだった会社員を辞めてから突然本を手にし始めた。その前もすこぉし本はあって、狭いコンクリ住宅のトイレの中を本棚にしていたという程度のことだった。当時は1970年頃の雑誌が中心だったから植草甚一の「Wonderland」やら矢崎泰久の「話の特集」やらおよそアカデミックとはいえない。なにしろ会社員時代は酒にばかり金をつぎ込んでいたから買ってくる本といったらそんなものばかりだ。だからおかげで当時の世相を反映しているといって良いかもしれない。当時は銀座の電通通りの東芝ビル(今はもう売られて東急不動産のものになっており、解体寸前である)の旭屋に入り浸っていたくらいだからおおよそアカデミズムと縁がないことは想像がつきそうなものである。
そうそう、会社を辞めるといって人事に手続きにいったら若い担当者が開口一番「あなたのような方がおられると会社も助かります」といった。彼は一体自分が口にした言葉が何を意味するのか全く咀嚼しないでいっているに違いない。「主よ、お許し下さい、彼は自分がいっていることをわからずにいっているのです」と祈ってやりたいくらいであった。
で、会社を辞めて学校に入ってみたら、突然あれもこれも読まなくちゃいられないくらいの刺激をどんどん受けたのだ。私は前にも書いたけれど、初めて大学にいった時には殆どというか、全く勉強をしなかったものだから、授業で使う教科書すらろくすっぽ手にしていなかったのである。もちろん持っていたけれど、すべてが雲散霧消してしまったくらい関心がなかった。わずかに残っていたのは英語関係の書籍のみで、引っ越す時にも大して本で苦労した記憶がない。ことほど左様なんである。
その学校では実に向学心というか、興味をたいへんに刺激された。なにしろその学校の図書館が凄かったということもある。なんでもが開架になっていて、探し始めるとあっちだこっちだと次から次に興味が拡がっていく。通学に1時間半もかかるというのに、夜になっても図書館から離れられなかった。その上毎日山のような宿題が出ていたのだから、私にとっては生まれて初めてのアカデミックな環境での埋没だったと云って良いだろう。環境がらみの文献を捜して地下の書庫へ降りていくと、同期生の私よりひとつ歳上の女性が床にNew York Timesを拡げて記事を捜しているところに遭遇した時には、思わず「同志よ」と云いたいくらいだった。彼女の名前はもう忘れてしまったけれど、才媛だった。
そこからだ。めったやたらと本が手元に欲しくなったのは。今ある蔵書のほぼ7割くらいはそれ以降に入手したものに相違なかろう。古いものは古本屋だったり、某大学の図書館から廃棄されるものだったり、はたまた地元の図書館から出てきたものだったりする。だから、古本屋に売り払ったところで、いくらにもならないものばかり、というか、買い取ってはもらえないものばかりだろうとは思うけれど、私にとっては面白くてしょうがないものばかりなのである。
しかし、問題はこの先だ。何時私が死ぬのかを見極めなくてはならない。死ぬ前にこの私にとっての宝物であるけれども、残される家族にとっては厄介者でしかないガラクタをどうにかしなくてはならない。その本を積み上げて家の替わりにして暮らしたらどうだと云われる程度の認識しか得られない私の宝物はそのまま残したら邪魔そのものとなると云うことだ。今流行りのアジャリじゃなくって「断捨離」を実践しろってことなのだ。
なにしろ時間がどれほど残っているのかわからないからなんともいえないのだけれど、私がここにある本のどれだけを死ぬまでに開くだろうか。もう開くことはないかもしれない。じゃ、どれを捨てるというのかといったら、そんなものを決めるスケールを私は持っていない。そんなスケールがあったらこんなにかき集めなかったに相違ない。なにしろ志ん朝の噺本、戦後占領期における英国連邦軍の占領政策、丸山眞男に優劣基準なんてつくものか。
これをそのまま、その中に埋もれて死ぬのは単なる隠遁者には身分不相応なのか。