ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

今は何を?

 大変に久しぶりに出逢った人と話していると、大体聞かれるのは「で、今は何をやっているの?」という質問ですな。これは非常に困る。なんで困るのかというと、今の社会で認められている、やっているという言葉を付け加えるのに適当なことを今の私はやっていないからなんです。賃仕事にしろ、時給にしろ、あるいは無給にしろ定期的にあることにいわゆる「従事」をするということをしていない。ちょっと前までは友人の一人が主催する不定期なイベントの手伝いを必ずしていたので、そんなことをしているという説明もできた。しかし、昨年の5月を終わりにしてそれも自分で潮時だと思って一切手を引いてしまいました。なぜかというと自分が主催者でもないのに、自分の色を押しつけることになるんだなと感じたからでもあります。
 昨年の8月に思いっきりひどい風邪を背負い込んで、それから咳が引かず、気管が辛く、すっかり声が元に戻らなくなってしまったのを潮時に唄も歌うことがなくなってしまったので、友だちとの付き合いもすっかり減りました。挙げ句に酒を呑むことに対してもその免疫(そんなものがあるのかどうか、しりませんけれど)がすっかりなくなって、昨日のように熱燗をおちょこに2杯も呑んだら、すっかり気持ちよくなってしまいました。だから、こっちの付き合いもすっかり減ってしまって、何軒もいっていたバーにももうすっかり顔を出さなくなりました。どうやら皆さん、何があったんだろうかと噂して下さっているような様子が見られます。中には突然ばったり顔を見せなくなって無責任だと思っておられる人びともおられることでしょう。
 不思議なもので、家から出ないで何ヶ月か過ぎると、なんだかそれで世の中すんでしまうような気がして来ます。かつてであれば、世の中の動きを知らないで世捨て人になってしまうような気がしたんでしょうが、こんな時代になると、全くそんなことはなくて、テレビとラジオとネットさえあれば、おおよその世の中の動きは全部わかります。ただ、外に出ないとわからない季節の移り変わりから疎くなってしまうことは事実です。
 多分引きこもってしまっている青少年も、それほど困ってはいないと思うのです。彼等だって、喰う寝ることには困らないのは事実ですし。ただ、面倒なのは「まっとうな」人間の時間の送り方ではなくて、誰だってやれるものならそうしてのんびり人生を送りたいのに、なんでお前だけそんな時間の送り方をしていて許されるんだという世間の眼だけです。しかし、これが最後のよりどころなんですね。
 これを払拭してしまうとなんでも良くなっちゃう。実は自分はそんなことはないと思っている人たちでも、実質的にはこれを払拭してしまって暮らしている人は結構います。他人の目につかないところでそうしているうちはまだしも、それでは明らかに他人の眼に触れるぞ、と思うところとそうでないところの見境がつかなくなってしまうということがあるようで、例えば電車の中で何かを食べる、化粧をする、足を投げ出すなんて今や当たり前に誰でもがやっているけれど、その実他人がやっていると、なんだと思うし、自分がやるときでも多少なりとも心に引っかかりはあるけれど、何もそれは私ひとりじゃないと割り切ってしまうなんてのも、実はそうしたことを部分的に払拭してしまっている結果でしょう。
 多分巧いこと自分の関心と世の中のニーズとを結びつけることができる手だてが見つかれば良いんだけれど、そうじゃないと、自分の世界の中に安穏とする生活から脱却する理屈が自分の中に芽生えないというエクスキューズにもなり得ます。実は世の中、背に腹は代えられないから、自分を説得し、鼓舞し、励ましながら外で暮らしているという人たちがあっちにもこっちにもいますよ。私もまだごまかしが続く頃はそうしていましたから。
 「はなはだ残念なことに今はお話しできるようなことはなにひとつやっちゃいないんですよ、お恥ずかしながら」というのが精一杯な今日この頃でございます。