ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

珍しく

 今日は随分と寒そうな景色が拡がっているけれど、横浜で昔勤めていた会社のあるグループの呑み会がある。先輩から後輩まで10人ほどが集まるらしい。横浜は私が生まれて育った街だけれど、学校を卒業して以来離れて暮らしている。実家には年に数回は行くけれど、横浜駅の西口に行くことはもう殆どなくなった。母親が健在だったときは最後まで通ったから何度も西口のデパ地下で買い物をした。
 実家の界隈では「西口」といったらそれは横浜駅の西口を意味した。私が小学校に入る頃までは西口というのは臨時口で常時開いている改札口ではなかった。なにしろ相模鉄道線というのが相模川の砂利を運ぶためにできた電車だから西口は砂利置き場になっていて、横浜駅というのは飽くまでも東口が正式な改札口だった。当時は桜木町駅横浜駅が近辺にあった大きな駅舎で、子ども心にこの二つの駅は「アッ!」と声を出すと響いて面白かった。これが大きな駅の象徴だったのだ。
 だから西口は足下がいつもぐちゃぐちゃしていた印象がある。そういえば先日ラジオで西武多摩川線多摩川から砂利を運ぶために作られたという話をしていたからかつてはこうしたものを開発するためにはやっぱり鉄道が重要だったということか。
 西口に最初に作られたのは「高島屋ストア」という建物だった。その裏にはコンクリートのたたきで作られた青空ローラースケート場が造られた。当時、東神奈川と東横線の反町の間にあった反町公園は1949年の日本貿易博覧会の跡地で、そこに神奈川体育館というのがあって、季節が来るとアイススケート場になった。しかし、不良のたまり場といわれていていっちゃいけないといわれていた。親に内緒で遊びに行ったら、ひっくり返って手をついて、そこを他の人のスケートの歯で怪我をした奴がいるという噂がまことしやかに流れていた。だから、青空の下のローラースケートはそれよりも若干健康そうに見えていたらしい。幼かった私は柵に足をかけて見ていた。
 追記:その横浜駅西口に行ってきた。
 駅ビルは3月27日で閉館するんだそうで、あちこちにそれが大きく書いてあり、informationのカウンターにはカウントダウンボードがしつらえてある。館内は殆どが女性向けのお店になっていて、昔日の感は全くない。このボードを写真に納めていこうとカメラを構えたら、なんと電池が入っていない。そうだ、充電したまんまなのだ。
 一番上(といっても7階だ)にサッポロ系のビールの店があって、その一角でおじさんばかり12-3人が集まってあぁでもないこうでもないと賑やかなことこの上ない。楽しい先輩ばかりであっという間に3時間が飛び去った。
 小一時間ほど早めに着いて、ダイヤモンド地下街に入ってみた。さしもの広かった地下街も今入ってみると、それほどに感じないのはいつものことながら不思議な気がする。有隣堂も中・高生だったときにはもっともっと広かったように感じるのだけれど、今となってはごく普通の本屋でしかない。キャッシャーが忙しく立ち働いているのが甲斐甲斐しい。有隣堂には「有隣新書」というのがあって横浜に関連した様々な書籍が出ている。私の手元にも戦中のことを書いたもの、戦後のことを書いたものがあるけれどどうもこれまでに68冊出版されているらしい。、「都市横浜の半世紀」なるものを発見して入手。この本で占領期の伊勢佐木町不二家が接収されているときの写真が出ていて、これが私の思い出にぴったりだったので、ホッとした。
 有隣堂が出している「有隣」も最新号を戴いてきた。表は哲学の木田元が「私の『写字生』体験記」として戦後の学生時代に東北大でどの様に哲学を学んだかという話を電子書籍の大普及を前に綴っている。2面では松村雄策が「海炭市叙景」の佐藤泰志について書いていて、3面では北方謙三が『抱影』について書いている。彼の父親は船乗りだったというのはよく知られている話だけれど、その父親は船を下りてからも船に関連した仕事を横浜でしていた。昭和40年代の後半、私はそんな彼の父親を年に数回見ていた。今の彼はやはり父親似だといって良いだろう。