ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

結局散歩することに

 《写真:日暮里駅前は舎人ライナーは通るは、超高層マンションがどんどんと建って、もう全く昔の場末の雰囲気がなくなった。尤も裏に回れば変わらず、ロータリーに入ってきたトラックが前の車を怒鳴り倒しているところなんざ、全然変わっていない。つまり、この地域にこんなもの建てちゃって、どうしてくれるんだよぉ、なんである。》
 今日は新宿で保阪正康の話を聴く木曜日である。新宿に到着することには雨がシャラシャラと降る鬱陶しい朝だった。今朝はなかなか寝付かれなかったものだから頭がボ〜ッとしていたりしたのだけれど、やっぱり保阪正康の話は興味深くてあっという間に1時間半が過ぎる。
 1855年と1875年の日本とソ連の間の協定がありながらなんで今の北方領土はこんな形になってしまっているのか、という話だったのだけれど、普通の北方領土問題では語られたことのない視点で語られるものだから、興味津々なのだ。
 保阪正康の話は、アイテムアイテムの合間にぽろっと語られるちょっと外れたところで語られることもとても面白い。ところでほぼ一ヶ月前にサンフランシスコの講和条約会議で吉田茂が日本語で演説した理由はなんだったかということが語られたのだけれど、青柳恵介書くところの白洲次郎のアドバイス説をどう見るのかという点について質問をした。すると保阪の説明は、いずれにしろ白洲の伝えられるところの言動、行動は逆説的に作られているところが多々あってとても信じることができない、という。
 少なくとも保阪が「吉田茂の逆説」で書いている、アメリ国務省の人間がアドヴァイズしたというのは原典があっての話だけれど、青柳の説には原典は書かれていない。
 私が白洲次郎の伝説には眉唾的な部分を感じているのと同じように、保阪も同様なイメージを持っていることがわかった。
 昨日テレビで、上野松坂屋でまた今年も訳あり食品市が開かれていて、これが格安なんだというのを見て、帰りに寄ってみようとそのまま地下鉄で上野広小路に出た。かつては地下でやっていたなぁと漠然と地下に降りる途中で、7階の催事場でやっていることを知りエレベーターで上がってみると・・・。なんということか、入場するための列が6階を通り越してしたまでつながっていた。こりゃいつ入れるのかわからない。急遽取りやめである。
 腹が減っているし、星座占いでラッキーフードはとんかつ、と書いてあったので、とにかく立ち食いうどんではなくてとんかつを食べなくてはならない。ガード下の東側を上野に向かって歩くと、ふと「とんかつ」という字を見付けて入る。「かつ仙」(東京都台東区上野6-10-22)という店だった。小さな店はカウンターに12席ほどと二人用テーブルが4つほどでつまり20席ほどだ。揚場に二人、洗い場に一人、ホールに一人で運営。しかし、厨房が一段高い所にあるというのはちょっと見慣れない景色だ。
 ヒレカツ定食を所望したのだけれど、タイミングが悪かったのか、10分以上待った。私はロースカツよりはヒレなんだなぁ。大阪でいうところの「ヘレカツ」ね。空腹もあってか旨かった。久しぶりのとんかつだった。
 ここまで来たからと地下鉄に乗らずに区役所まで歩いて、台東区が運営しているコミュニティー・バス「東西めぐりん」に乗った。確かめずに乗ったらこれは谷中に行く奴だった。ま、乗ったからにはと谷中のよみせ通りで降りる。谷中銀座に差し掛かると雨降りだというのに、結構な人混みで階段に辿り着くのに往生する。なんでここに来たかというと階段の上に古本屋があるんだと聞いていたからだ。ところが普通に歩いているうちに日暮里の駅まで来てしまった。そんな筈はない。御殿坂を引き返す。すると階段を上がった直ぐの建物の二階にあるのだった。
 古書信天翁:東京都荒川区西日暮里 3−14−13 コニシビル202 映画、美術、芸能といったところは面白そう。東京キッドブラザース東由多加が書いた本があった。と思ったら空山基のまだ手ぬるい作品集「PIN・UP」があって「はじめに」に空山が鼻に指を突っ込んだ顔写真があった。「考える人」のバックナンバーはなかった。東京人の1994年8月号No.83「特集:昭和三十年代、東京。」と「母と子で見る 東京大空襲 早乙女勝元編」草土文化刊1983の2点を入手。ノスタル爺さんの如し。
 最後はちゃんと都バスで帰ってくる。