ほぼ足りてまだ欲 その先

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本当の意味


 「勉強ができるということが優秀ってことじゃないんだよ」と昔から良くいわれていたけれど、それを聞く度に、そんなことを私がいったって、どうせ負け犬の遠吠えだと批判されるに決まっているんだと思っていたから、心の中ではそう思いながらもいわないでいた。
 だって、自分だって入学試験にびっちしあたって高い点数が取れて入れるものだったら東京大学の法学部に受かってみたいなと思っていたことは事実なんだから。でも、そこにいったら何をしようだなんて、なんも考えずにいたのだ。当時のノンポリというか、なんも考えておらないその辺の高校生はその先のことを真剣に考えて受ける大学を決めていたかといったらそんなのは相当に意識を持った青年達だけだっただろう。勿論そうした高邁な思想を高校生の時からしっかりと心に持っていたのは確かにいただろう。
 しかし、その大半はなんせボ〜ッと親の脛にしがみついて暮らしたりしていたから、なんも目覚めない。受ける学校をどうやって決めるかといったらどこに受かるか可能性が高いか、だけが基準だ。だから、大学だって、法学部も、経済学部も社会学部もなんでも受験しちゃうのである。節操なんて何もない。こんな先生がいるからあそこに行きたいなんて思ったこともない。今みたいにネットで検索したら、どんな先生がどんな授業をしているかが瞬時に入手できるなんて環境はないのだから。
 その延長線上にいたから大学を卒業しても就職するんじゃなくて、就社するのが当たり前だと思っていた。しかも、会社に入ってからも「こんな人間でも必要といわれるところならどこのセクションでも行きます」といったら本当に西も東もわからないところに連れて行かれちゃって、面食らったこともあった。
 中学の頃からろくに全霊を込めて勉強なんてやらなかったし、高校ではボウリング場やジャズ喫茶を徘徊しながら「受験生ごっこ」をやっていただけだからチャレンジして偏差値最高峰を受ける気すらなかった。
 実はこの反対で、偏差値の高いところに受かる、ということを目的に大学受験に備えてきた、という連中もまたいくらでもいるのだ。そういう連中は文系だったら東大法が最高峰だと思っていた。だから、この学校のこの学部に合格しちゃったら本人だけじゃなくて、親も、周囲も「あぁ、なんて優秀なことなんだろう」と喜ぶという具合になっていた。
 そういうコースを歩いてきたら自分は周囲に較べたらなんて「優秀」なんだろうという意識の中に埋没してしまうのは致し方がないというものだろう。なにしろ誰もが「ヘェ〜」という顔をするんだから。
 その多くは霞ヶ関に行く。そして国民の視点に立った行政なんてのはクソ喰らえで、エスタブリッシュメントとタイアップして暮らしていく。その方が現実的に分かり易い形でのエスタブリッシュメントの一員という意識の中に暮らすことができるのだから。
 最近話題の古賀某のような、あるいは随分前にアメリカから帰国して霞ヶ関の住人になって、その実態に驚いて発言したら干されて最後はフランスで客死した宮本政於なんていうのは霞ヶ関で例外だからこそ名前が知られる。
 近頃の原子力委員会や安全保安院の発言を聞いていると彼等は日頃から誰を見ているのか良くわかる。原発のもしもの時のシミュレーションなんてやったことがない、イヤ発想したことがない、という話を聞くと、どう考えても、彼等が「優秀」だとは思えない。「抜けている」から、一を聞いて十の発想ができない。できるのはこれをやるとエスタブリッシュメントの中で誰が困るか、だけである。勿論その中には自分も入っている。
 やっぱり、東大は解体する必要がある。