ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

安価な労働力

 ものを生産するには単純にいってしまえば設備費、材料費が必要でもうひとつ重要なのが人件費だよ。企業はこれを揃えて商品を作り出して、これを今度は流通にのっけて、またここでも経費がかかって、売れた分がこれを上回ればそれが儲けとなるわけだ。
 材料なんてのもどこから手に入るのかってことに依るけれど、輸入だったら、ただ値段がどうのこうのだけじゃなくて、その決済通貨と円との交換レートが安くなったり、高くなったりするから、時と場合によって一喜一憂するわけだ。
 となると、人件費はより安いものでやっていこうとしたいものだ。1時間労働して500円の人と1000円の人のどっちを雇ったらよい製品ができるか、というのも昔はけっこう重要だったけれど、設備が良くなって誰がそれを動かしてもできる製品が同じだってことになると、より安くても「やる!」っていう人を雇う方が儲かるに決まっている。だから、そんな設備を持っていって安く人が雇えるところで生産すればするほど商品の価格を安く設定することができて、競争相手を出し抜くことができる。
 そこで邪魔になるのが、労働基準なんて決まりだったり、最低賃金なんて制度だよ。こういう安全基準を守らなきゃならない、この地域だったら物価にあわせてこれ以下の賃金で人を雇っちゃいけないなんて面倒な決まりがあるわけだ。
 なんでそんなものがあるのかといったら、格安の賃金では人は暮らしていけなくなっちゃって、とても「文化国家」とは言い難い生活レベルを働く人に強いることになっちゃうからだ。
 「最低限度の文化的生活」ってのは一体何だよ、というのはいつだって議論の的だ。しかし、少なくとも、寝起きする屋根と壁と床に囲まれた空間くらいは欲しい。欲しいというよりはなくちゃならんだろう。それから、昔から「衣食足りて礼節を知る」ということをいってある。着るものがないといけないし、腹が減っては戦ができない。
 だから、そういう生活ができることを確保するための賃金はいくら何でも出して頂戴ね、といってある。
 しかるに、現状はどうだ。「最低限の文化的生活」が多くの国民に提供できているだろうか。
 「派遣社員」というのは一体どうしたことだ。かつての「派遣社員」というのは常雇用につくことはできないけれど、パートである種の技能を持っている人が従事するような職種を意味していた。例えばタイピスト、通訳のようなパーマネントで雇われている人たちが担当するにはちょっと特殊なんだけれど、そうかといってその人達を常雇いしているほどの仕事がない、というような場合の人たちだったり、あるいは全くのパートタイマーと呼ばれるような、スーパーのレジうち、食堂のスタッフのような人たち、もしくはアルバイトと呼ばれる単純な仕事だった。
 それが今ではメーカーのラインでも、流通倉庫の作業だとか、アルバイトもパートもなにもかも、「派遣」という形態をとることによって労働賃金も下げるし、雇用する側の面倒を全部引き受けるという業界が跋扈するようになった。
 そのおかげで何が起きたかというと、労働者は分断されてしまい、派遣業を営む企業体労働者個人という「権威対個人」というまったく一方的な力関係への移行だ。
 こんな労働市場を作り出したのは一体誰だ。も受ける人が勝手にこれを作り出したのか。いやいや、そんなことができるわけがない。労働基準監督署なんちゅう立派な役所があるじゃないか。「こらこら、そんな働く人の条件をおとしめちゃならんぞ!」と警告する役所だ。しかし、法律を変えちまえば、法律を守るために存在している公務員だって変わっちまう。法律を変えちまえばいいわけだ。
 「派遣」という名前の日雇い低賃金労働者を生み出し、人件費の低減によって日本企業の窮地を救ったのは自由民主党・小泉・竹中コンビだった。「新自由主義」といって市場は民間企業のやりたい放題にすれば早晩淘汰が進んで安定した社会が作られるというのが彼らの考え方だ。よく考えてみると民間、つまりどうやって懐に金を入れようかを日夜考えている集団がやりたい放題にして倫理観が進むわけもないわけだ。
 非常に残念なことに人間は「我が身優先」である。自分の取り分をまず犠牲にして人に美味しいものを差し出すことができるのは宗教的な倫理観に目覚めない限り所詮やらない。いや、今や「宗教」という衣を纏って利益を追求する集団ばかりだといっても良いか。
 若者をないがしろにして発展するという国家形態があり得るだろうか。将来に展望が全く開けない状況で誰がやる気になるだろうか。頑張れば、ちょっとの間多くのことを棚上げにしておいても、集中して労働に従事したら次に面白い展開に挑戦できる、としたら誰だって次のステップに向かおうとするだろう。しかし、そんなことはほとんど望めずにこのままの状態に押し込まれていくのだとしたら誰がそこに未来を見るだろうか。
 今の社会システムをひっくり返さないと、フェアな社会システムを作り出さないとこの国は消滅の道を辿るしかないだろう。そのためにはどうするのかといったら、やっぱり「このやり方ではダメだ!」と主張するしかない。「お前じゃダメだ!」といわなくてはならない。
 NTTグループが定年社員の再雇用についてこんな事を発表した。

 NTTグループは15日、定年に達した社員を65歳まで継続雇用する給与原資の確保に向け、現役世代の人件費上昇を抑える新賃金制度を2013年秋に導入することで、労働組合側と大筋合意したことを明らかにした。主に40-50歳代の社員の平均賃金カーブの上昇を抑制するのが柱。(時事ドットコム 2012/12/15-11:58)

 なんでこんな事を敢えて発表したのだろうか。多分この会社は60歳が定年だろうか。定年社員を再雇用するのにその下の年代の昇給を押さえるということだ。世代間の争いを喚起したいのだろうか。「必要だったら雇うよ、雇うけれど、その下の年代は我慢しなさいね」といっているように聞こえる。「だったらあいつらはいらねぇよ」という40-50歳代社員の声が聞こえてきそうだ。しかし、残念!多分彼らは組合員じゃない。会社の言いなりだ。
 尤も、労働組合なんてものはそんな大きい企業でもほとんど崩壊だろう。本来的には労働組合というものは労働基準監督署でも知らん顔をしているような状況を身を挺して闘う集団だった。
 今や彼らのやることを代行しているのはほとんどいない。たまに日本共産党が国会で質問に立って「熊本のキャノンではこんな事がまかり通ってる!」と暴露する。しかし、時の政権は自民だろうと民主だろうと「個別の案件については言及はできません」といって知らん顔をする。それをマスコミが追求するかといったら、ほとんどしない。
 このシステムをどうにかしなくちゃならない。そうしないとこの国の将来に「希望」という色が全く出てこない。
 じゃ、どうするのか。