すべからく「契約」という約束の形態はその取引に拘わる当事者がもしも全員の了解通りの行動をとらなかったらどうするか、ということを規定するものである。だから、もし、契約通りの資材を用いて、契約通りの工作法を用いて加工をし、契約通りの品物を完成させ、契約通りの時期にそれを納品することができなかったらどうするか、あるいは契約通りの金の支払い方をすることができなかったらどうするか、ということを規定してある。だから、「土工事一式」と書かれていたらその中の土工事というのはどの様な工事を含むのかを明らかにしておかなくてはならない。
しかし、私たちの社会では家を建てるのでも、かつては棟梁にこうしたいと申し入れ、そうですか、じゃ、いくらで請け負いましょうと請け合ってそのままだった。このやり方の便利なのは、もしも建てていく中で思いもよらないことが出てきた時に、それを全体の中で良いように始末してしまって実現することができちゃうということがあったりする。それを融通を利かせるという。
しかし、その代わりにこうなるだろうと思っていたのにその通りにならないことだってあり得るのだ。
それを契約でがっちり固めておくと、全くそのままのものができる代わりに途中で適当に変更して欲しいものが出てきた時に、また契約の変更が必要で、それは断られることだってあり得る。
つまり、契約というものは性悪説に基づいているわけで、この国ではなかなか理解されにくかった。相手を「何をするかわからない奴」と思って交渉するよりは「もうあなたのことは全部頭から尻尾まで信頼してますからね」と手の内をさらけ出して交渉する方が万事上手く収まる・・・様な気がしている。
ましてや、これが介護の世界だったら、益々「契約」できっちり規定することが市民の中に浸透するには長い時間がかかりそうだ。「そんなことをいったら入れてくれるところが見つからない」「そんなことをいっていたら中で何をされるかわからない」という気持ちが働くだろう。しかし、人が対応するサービス産業であるからこそ、そこが割り切られて行かなくてはならないのだ。
この国の文化の中でこの思想が定着することがあり得るのだろうか。