珍しく朝日新聞も大したものじゃないか、と読み入ったのは神戸女学院大学の先生だった内田樹名誉教授の「壊れゆく日本という国」という寄稿だ。
新聞記事だからウェブ上になくなってしまうだろう。そうかといって全文ここに転載するのは如何かという気がしないでもないのだけれど、これまでの私の主張と正に一致する考え方で、なんといってもあれだけの著作を著し、体力を鍛えている60代前半の正に脂ののりきった文化人の論説をのちのちまで、残しておきたく思うので、転載をお許しいただきたい。
(寄稿 政治を話そう)壊れゆく日本という国 神戸女学院大学名誉教授・内田樹
日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。
それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
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大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。
大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
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繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。
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もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。
よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
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うちだたつる 1950年生まれ。専門はフランス現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じる。合気道七段の武道家。「街場の文体論」など著書多数。(朝日新聞2013年5月8日こちら。)
私が感じていながら巧く表せなかったことで、内田先生が指摘していることの一つは「本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略」だとして指摘していることだけれど、「即戦力の人材供給を大学に求める」姿だ。
かつての高度経済成長時期の大企業は新卒者を受け入れてから、各企業が彼らを自企業に相応しい労働者として教育するというシステムを構築していた。中には企業の中に学校法人を設立してまで教育訓練に時間と費用を費やしていた。その結果一人前の労働者として育った連中を横からちょっと高い給料を出してあたかも横取りする中企業だってあったけれど、それを黙認する度量すら持っていた。それでも卒業前に前倒しで学生をあさる企業があったから、経団連が申し合わせをしてフライングを諫めていた。
それが今はどうだ。大学や高校、専門学校はあたかも口入れ屋の如き存在として捉えられてしまう世の中になってしまった。しかも挙げ句の果てに、世界どこでも給与体系は同じだと公言してはばからない企業まで生み出した。
「国益」という言葉をアベシンゾー一派は好きこのんで使う。しかし、彼らが守ろうとしているいわゆる大企業はそんなことを知っちゃいない。