ほぼ足りてまだ欲 その先

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「戒厳機密日誌」

 2.26前に毎日新聞が記事にしていた司令官代行だった矢野機(はかる)・陸軍少将の「戒厳機密日誌」について保阪正康が冒頭からこれに触れた。
 なんでも年初からこの資料を見せられて読んだのだそうだけれど、大変に読みにくい字で、国立国会図書館憲政資料室に永年勤め、今は駿河台大で教鞭を執り、保阪正康がかつて平凡社新書から出した「昭和史の一級史料を読む」の共著者でもある広瀬順晧氏の力を借りて読むことができたのだそうだ。彼はどんな資料でも読み下すことができる力を持っているのだそうだ。これは相当に貴重なことで、歴史に携わると、昔の原資料を前に途方に暮れることは多々だからだ。
 先祖には軍人もいたというかつて習志野連隊出入りの千葉の酒屋から出たものだそうで、大量にある昔からのものを捨てようと撮りだした時に、たまたま上になっていたものに「極秘 二・二六 二関スル記録 矢野少将」とあったので気になり、毎日新聞の販売店を通して連絡があったものだそうだ。戦争終結時に多くの書類は焼却指令が出ていたはずだけれど、それを隠したものではないだろうか。
 毎日新聞の記事では多くを書けなかったそうで、それほど注目を浴びなかったのかも知れないが、実はこの日記には非常に重要なことが含まれていた。
 事件が発生した時、関東憲兵隊司令部の岩佐禄郎司令官は糖尿病で伏せっていた。当日連絡を受けて三宅坂の司令部に出て、陸軍大臣に面会を求めて行くも蹶起兵がいて入れず戻る。「なぜ一報が自分に入ってこないのか」とここで岩佐が泣いたと矢野が書いているのだという。
 これがこれまで知られている話の上ではとんでもなく重要だというのだ。これまで伝聞として岩佐司令官が泣いたという話は伝えられてきたけれど、矢野はここに泣いているのを見たと言明してることが今更ではあるけれど確認できたわけである。
 そしてもうひとつ。当時の侍従武官長だった本庄繁はその「本庄日記」の中で発生後、直ちに岩佐司令官に電話したと書いているものの、娘婿の山口が青年将校に荷担していて、天皇にも「彼らの気持ちをご理解頂きたい」訴えては天皇の怒りを買うというスタンスにいたにもかかわらず、彼がその情報を憲兵司令部にわざわざ言うわけがないだろうと思われていたけれど、決め手を欠いていた。しかし、この矢野日記によって岩佐は全く知らされていなかったことを嘆いて泣き、それをまさに証人としてみていた矢野が記録として残していたのだ。