一昨日、落語を聞きに行った帰りに、そういえば自分はここ2-3年浅草公会堂の「新春浅草歌舞伎」を見に行ってないなぁ、あれが始まった頃は簡単に三階の席が買えたのに、近頃はなかなか買えないものなぁといったら、第一部をお友達から誘われて見に行ったつれ合いが、どうもそうじゃないみたいだよという。今の顔ぶれがそうでもないからなのか、今年は売り切れじゃないらしいという。
じゃ、といってうちに帰ってきてから松竹のサイトを見たら、なるほど、これまでだったら全席売り切れだった三階に売れ残りがある。ほう!といって今日の分を押さえた。二日前だというのに残っている。後ろから二列目「へ」の真ん中辺が空いていた。隣二つも空いていたのだけれど、行ってみたら、若い女性がそれぞれひとりで来ていた。残り三日というのに今日もラジオで宣伝しているくらい、売れていないらしい。
今年の二部は『双蝶々曲輪日記』より「角力場」、『御存鈴ヶ森』、『棒しばり』で、幕開け前のご挨拶は坂東巳之助、今日生まれて初めて歌舞伎をご覧になる方はおいでですか?と客席に振って、一階の女性にインタビュー。地元出身の23歳だという女性だったが、もちろん三階からは見えやしない。
どこへ行っても三階席からしきゃ見たことがないのだけれど、欧州のオペラでも浅草の歌舞伎でも、席から身を乗り出して見ようとする人は必ずいる。こういう人は三階慣れをしていないお客さんで、それをやられると後ろのお客が見えなくなっちゃうということに想像が働かない。今日は二列前の老夫婦と娘とおぼしきお三人様がそれで、視界の邪魔だった。連れ合いの前の席に、途中から葉加瀬太郎のような頭をした人がどっかとやってきて、この人の頭が邪魔で参ったそうだ。いえば休憩中に替わってあげたのに。で、このお三人と、葉加瀬太郎が寝ちゃうんだよねぇ、ものの見事に。もったいない。
「双蝶々」は前にも書いたけれど、落語のそれとは全く違う。私が初めて「双蝶々」の落語を聞いたのは林家正雀さんで、なんと京都南座での前進座興業で、その幕開きに広い舞台に正雀さんが紋付き羽織・袴で出てきて座布団に座って、序の話をし、そこから先を舞台で役者が演じた。これはまったく落語の「双蝶々」だった。長吉は子どもの頃から手癖が悪く、奉公先でも何人も殺してしまう。最後は凶状持ちで、食い詰めた父親と継母に出会いながら大立ち回りの末に捕まる噺だ。
ところが歌舞伎に出てくる長吉は丁稚上がりの相撲取り放駒長吉。これに相対するのが大関濡髪長五郎。ひいき筋同士の遊女吾妻の取り合いに一枚絡んでの相撲取り同士のやりとり。「角力場」はこれっきりだけれど、通しの話はここから先、えっ!まさか、何でそんなことになっちまうんだ!と驚き桃の木な、いつもの展開となりにけり。そういう意味ではオペラも歌舞伎も、切ったはったと愛憎ない交ぜのむちゃくちゃ複雑な、関係をメモにして手元に持っていなかったらわからなくなってしまうような展開だ。
それに比べたらテレビのドラマは出演者が限定的で、良くまぁ、これだけの人間の間がこんなに偶然に偶然を重ねたような筋書きにできるな、と感心するような。
中村錦之助の幡随院と息子の中村隼人の白井権八はさることながら、良くまぁ、これだけの無頼ものの出演者が公会堂のステージに出てきたものだと驚いた。中に坂東大和が出ていて、イヤフォンガイドでその名前を聞いて、久しぶりに思い出した。たった一度友人の事務所にたくさんの人たちが集まって呑むことが良くあった頃、とんぼを切って怪我をして、休んでいる頃の彼に出会って、話をしたことがあった。無事にやっている様子が見られてうれしかったなぁ。
中村隼人は女形も優男も見事に演じるのだけれど、どうしても彼の顔立ちが現代的なのが気になるねぇ、まるで草刈正雄がカツラをかぶるとどうにも違和感が出てきちゃうのと同じようだ。これは彼の責任じゃないし、どうしようもない話だ。
棒縛りはこれまでにも様々な組み合わせで楽しんできた演し物だけれど、巳之助と松也も賑々しく楽しそうに面白くやっていた。
帰りに久しぶりに観音裏の「弁天」にいつものそばを食べに行った。お姉さんはいつものように愛想がないのだけれど、別のお客さんが声をかけると笑みこぼれて声が違う。死ぬまでに一度で良いから「なんで、私にはお愛想がいただけないんです?」と聞いてみたい。いつか私は彼女にいやな思いをさせたんだろうか。もう何年もこうなんだよなぁ。
蕎麦を待つ間、ほかのお客さんが注文した鍋焼きが来た。二人して思わず「あ、あれだ!」と後悔した。そうだ、こんな寒い日は鍋焼きだよなぁ。京都錦の冨美屋を思う。あそこの鍋の海老天は小さいが、今日の天せいろの海老も一つはやけに小さかったなぁ。
仕事から帰った娘が節々が痛い、インフルエンザかもしれぬという。くわばらくわばら。