ほぼ足りてまだ欲 その先

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日本人日系人スパイ網

 戦前、米国に暮らす日本人移民、あるいは彼らの子孫である日系人によるスパイ網が、ワシントンにあった日本大使館の三人の一等書記官のひとり、情報担当の寺崎英成の手によって構築されたいたという話があるらしいのですね。で、寺崎は国外追放ということになったので、メキシコへ一旦逃れるということになっていたので、その送別会が前夜開かれていたというのが1941年12月7日の朝までに最後通告が遅れた理由だったという話を聞いたことがあります。
 しかし、それはそれでおかしな話で、日本からは事前に送電予告があったらしいですよ。そして、この朝、この伝聞を英語にタイプしていたのはタイプがヘタックソな一等書記官のひとりだったそうです。重要な電文なので、地元で雇っているタイピストじゃなくて、一等書記官が叩けと命令されていたそうです。尤も当日は日曜日ですが。じゃ、なんで他のふたりの一等書記官は手伝わなかったのか。三人は全く意思の疎通を欠いており、それどころか、全くお互いのやることに我関せずだったのだそうです。つまり甚だ仲がよろしくなかったと。
 ここで驚くのは、地元で雇っていたタイピストというのが全くの派遣社員で、どうもこの人間のバックグラウンド調査すらしてはいなかったらしい形跡があることだそうです。戦後になって、このタイピストは誰だったのか特定しようとして、全くできなかったというくらいで、その辺の脇の甘さは驚くべきであったそうです。
 そういえばタイピストといえば、後に東京ローズとして国家反逆罪で裁判にかけられた戸栗郁子もあの仕事に就いたきっかけはそもそもタイピストとして雇われたくらいで、日本から専属のタイピストを連れて行く、という考えがそもそもなかったのかも知れませんが、実にお粗末そのものとしか思えませんが、当時はその程度のことだったのかも知れませんねぇ。
 寺崎のスパイ網がかなり広範囲に機能していたのだとしたら、真珠湾を攻撃されるやいなや、FBIが一気に日本人移民のリーダー的な存在であった人々を補足して収容したことを考えると、そのスパイ網は完全に米国側に把握されていたということになります。だから、日本人移民、日系米国人を隔離して機能できなくしようとした米国側の考え方は軍事的に見れば当然だということになるのでしょうか。
 しかも、米軍は太平洋戦線の進捗に従って、隔離した日系米国人の中からMilitary Intelligence Serviceに働くメンバーを養成したり、通訳兵を養成したりしている。機を見るに敏だったわけだ。しかし、それが誰でも彼でも拘束してしまったことによって、後年大きな問題になった。
 それでも不思議なことは今でも、ワシントンにはそれら強制収容所についてのモニュメントが建っているし、全米日系人博物館や、各地のその種の施設では未だにあの強制収容所時代を忘れるな!としたキャンペーンが展示されているし、それらキャンプの跡地では、マンザナー巡礼やツールレイクのイベントが開かれている。それでも米国人(日系だって米国人だけれど)はそれらのイベントに殴り込んだりはしていないように、こっちからは見えている。
 しかし、日本では米国や、フィリピン、韓国で戦時中の日本軍による慰安婦問題についてのモニュメント設置やムーブメントに日本政府が正面切って「やるな」と抗議をする。この差は一体何だろうか。
 戦争だったのであるから致し方がないではないかという居直りだったら、米国政府から、もう強制収容問題を蒸し返すな、各人に2万ドル払ったじゃないか、といわれてもしょうがない。この差はなんだろうか。