ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 病み上がりで初めて遠出をした。今日は保阪正康レクチャーの日だった。雨の寒い日にもかかわらず聴講者の出足は結構早く、行ってみるといつも座っている前から二列目はあいていたけれど、その前に座っている爺さんがいる。こりゃ珍しい。ここは概ね空席だったりする。
 ところがこの爺さんが、病み上がりの私が、コホン!と咳をしたり、しわぶきをすると、いちいち振り返るのである。とっても気になる。そのくせ自分だって、咳をしたりするのである。何がいいたいのか良くわからない。ウルサいといいたいんだろうか。だったら自分も咳を押さえつけたら良いのに。終わってから、わざわざ忘れ物がないか、確かめるような仕草をしながら私を睨み付けたから、にらみ返してみた。
 ところで、元共同通信ワシントン支局長、松尾文夫という人が日本時間2.26未明に、米国のシラキュースのホテルで85歳で亡くなったという。私はこの人の訃報に気がつかなかったが、保阪正康は随分前からの知己なのだそうだ。松尾文夫の祖父というのは松尾伝蔵といって、岡田啓介の義理の弟に当たる。つまり岡田啓介の妹を妻としていた。それで2.26事件の時、反乱将校は松尾伝蔵を岡田啓介と間違って射殺したんだそうだ。そして、松尾伝蔵の長女は、なんと瀬島龍三の嫁になった。つまりおばさんである。それで、保阪が瀬島を書いた当時、松尾文夫は「君が書いたことは8-9割り方あっている」といっていたのだそうだが、親戚の手前、そこから瀬島が亡くなるまで保阪は松尾文夫とはやりとりをしなかったそうだ。

参謀の昭和史 瀬島龍三 (文春文庫)

参謀の昭和史 瀬島龍三 (文春文庫)

 松尾文夫は日韓は根本的なところをつまびらかにして、しっかりと確認し合う行為を行うことが重要だとしていたそうだ。松尾文夫は今上天皇の楽友で、寮で同室だったそうだ。保阪はさぞかし今上天皇にとって松尾文夫の死は堪えたのではないか、といっている。
 ところで、かつて今上天皇は「なぜ日本に民主主義が根付かなかったのか」とご下問なさったことがあるそうだ。つまり、日本は民主主義国家だと認識されていないということだ。

 昔、通産事務次官で松尾金藏という人がいたんだが、松尾伝蔵とは関係ないんだろうか。