ほぼ足りてまだ欲 その先

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南極の石

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以前にもここに書いていると思うが、「南極ーオングル島の石」というものがうちにある。
なんでそんなものがうちにあるのかというと(話が長くなる)、うちの死んだ親父(1911年ー明治44年生まれ)がかつて某造船所で仕事をしていて、初代南極観測船の「宗谷」を改造したときの責任者だったという経緯である。

 記録によると、急遽「宗谷」を改造したのは1956年(昭和31年)のようだ。実際の工事はその年の3月から10月にかけて行われ、海上保安庁船舶技術部の徳永陽一朗氏が監督官として工場に常駐したそうだ。
f:id:nsw2072:20211116220114j:plain:w360:left その後は船は日本に帰ってくる度にドックで修理や改造が行われていた。小学校の低学年の時に、造船所に働く従業員の家族も含めて公開されたことがあり、その時に造船所へ行った記憶がかすかにある。何だか古ぼけた、汚い事務所に行った想い出なんだが、それが父親たちの現場事務所だったようだ。社会人になってその工場に行く機会があり、まだその古ぼけた事務所の建物が残っていたのには驚いた。
 「宗谷」は例のソ連の「オビ号」による救出を受けたりした経緯があるが、結局第6次観測で1962年4月に帰国するまで南極観測支援に従事し、その後は海上保安庁の巡視船に復帰。1979年から「船の科学館」に係留されて公開されている。
 南極観測支援船「宗谷」の初代船長が松本満次氏で、この石には「松本」という印が押してあったのがかすかに見える。昭和34年1月27日とあるので、第3次観測公開で南極へ行ったときに持ち帰ったものと思われる。
 43歳になる甥が実家の家業を引き継いでいて、硯を彫っているので、試しに見せてやろうとこの石をつれあいの実家の店に持っていった。極地研の先生に知り合いがいるから話してみようといっていた。

 うちに帰ってくると、実家を引き継いでくれている私の姉が実家を引き倒すときに親父の遺品の中から出てきたいくつかの書き物を送ってくれていた。偶然というべきか、その中に海上保安庁の徳永陽一朗氏が1978年に書いたという国立極地研発行のニュース掲載「宗谷改造工事の憶出」というコピーが送られてきたらしいことがわかる。この文は一緒にファイルされていた海上保安庁の「船舶技術部の航跡」という1984年発行の書籍の中でそっくりそのまま掲載されているようだ。
 南極に出かける船の改造はとにかく初めてなので、国の技術陣を揚げてのプロジェクトだったようで、工事期間も短く、最後の最後に130カ所の手直しが出て、それを晴海埠頭に係船したまま突貫工事で出港ギリギリまで行ったそうだ。