ほぼ足りてまだ欲 その先

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佃の渡し

 岡崎武志の「ここが私の東京」に「出久根達郎の月島」という文が収録されている。
出久根の小説「佃島ふたり書房」は舞台が東京オリンピックの年の佃島だという。
出久根は本名で、茨城の出身だそうだ。
東京オリンピックの年、1964年、昭和39年に上京して古本屋に職を得たという。
14歳最後の日にやってきた。

私はこの年、高校二年生になった。つまり出久根達郎は私よりも一歳若いということだ。
で、ここにこの年を最後に佃の渡しはその役割を横に建設中だった佃大橋に譲った。
その佃の渡しには中央区掲示がしてあったそうだ。
佃の渡しは都営で、煙突に東京都のマークが描かれていた。

三百二十年のご愛顧に感謝
佃島渡船はきたる八月二十七日限りで引退します。
佃新橋が同日開橋し皆様の足の便を図ります
長い間有難うございました
昭和三十九年一月
中央区役所

 前にも書いたことがあるのだけれど、私達はこの年に社会科の授業の一環として、バスで都内中心部を一周するという、今でいえばフィールドワークというようなものをやったことがある。わがクラス全員がバスに乗り組んで、それぞれ担当した地域に来ると、担当者がマイクを握って説明する、というものだった。私の担当に回ってきたのは、なんと霞が関で、当時の霞が関は今のような高層ビルだらけではなく、まだ階数の低い、古い建物ばかりだったような気がするが、事前の準備のために、横浜の自宅から二〜三度現地へ足を運んだ記憶がある。(だからあの一画にどこの省がどこにあるのか、熟知しておった。ところが役所を統合してしまったり、大きな高い建物を建てたりしたので、今ではもうわからなくなった。)
 その一環で、まだ運行されていた佃島渡船で佃島へ渡った。記憶の中では右手に佃新橋(今は佃大橋とされている)を見て船に乗ったんだから明石町側から佃島へ渡ったで、良いのだろう。そこから先、どんな手段でどこへ向かったのか、全く記憶が途絶えている。
 もちろんどんな順序で都内をバスで巡ったのかもう全く覚えていないが、言問団子を買ったことだけは覚えている。