ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

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2013年出版

2016年出版

 私よりも数年以上年上の方たちの中には戦争に負けてから外地から引き上げてきたという人たちが多い。その大半は満州からの引揚者だけれど、それだけではない。その引揚げ途上での苦労話はよく聞くけれど、実はそこから先の話がほとんど多くの関心を呼ばない。

 引揚者の数は全部でおおよそ600万人といわれているけれど、その半分は復員してきた兵隊だといわれている。そこにはシベリアへ抑留された人たちは含まれていないのではないだろうか。

 引き揚げてきた人たちはその後一体どうなっただろうか。

 横浜・桜木町駅前に「ぴおシティ」という名前がついているビルがあって、1968年に建った時は桜木町ゴールデンセンターといって、今でも建物自体の正式名称はそのままだ。桜木町の駅の反対側にポツンとこのビルが建ったのにはちょっと違和感があった。なんでこんなところに、まるで島流しのようにビルが建ったんだろうと不思議だった。ここにはかつて協進百貨店というものがあって、引き揚げてきた人たちが始めた横浜協進産業公社が建てたものだった。こういう市場、マーケットというたぐいのものが各地にある。帯広にはバラックのマーケット、「満蒙第一相互館」が発展した「ニューはとやデパート」があった。小樽では満州引揚者が中央市場を作り、樺太引揚者が中央卸売市場を構成した。新潟の鏡橋マーケットも、盛岡の桜丘商店街もそうだ。

 上野のアメ横も、もともとの始まりは満州からの引揚者の多くの人が集まってきて始めたという。なぜかというと、満鉄に関連した人たちが、当時の国鉄関連に戻った人たちを頼って鉄道の高架下で乗客相手のアイスキャンデー商売を始めたことが始まりだという。冬になって、アイスキャンディーのかわりに錦糸町方面にたくさんあった飴やから、当時多くの人たちが欲しかった甘いものを仕入れて売ったところから「アメ横」と呼ばれたんだというのだ。アメリカ横丁じゃないんだね。私達が一番出入りしていた頃は舶来ものはまずアメ横からだった。「4211」のコロンはアメ横だったなぁ。

 昨年、伊勢佐木町不二家のビルを見に行ったときに、ゴールデンセンターに入り込んだが、もはや殆どがシャッターの降りた区画になっていた。時代は動いていて、こうした引揚者の痕跡もどんどん消えていく。