ほぼ足りてまだ欲 その先

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団塊論

 昨年から「団塊世代」についての報道がかまびすしい。自分がその世代の一員だから気になる。それにしてもあっちにもこっちにも取り上げられている。しかし、そのどれもが塊としてのステレオタイプ評論である。曰く高度成長を享受し、バブルを創り出し、雇用形態を崩し、経済の停滞を招いてロスト・ジェネレーションを創り出し、自らは大量な退職金を抱えて「第二の人生」へまっしぐらと。そしてこうした表現をそのまま鵜呑みにする若い世代も出てきている。これはひょっとすると世代間戦争を引き起こすことによって無為無策の貧困な政治が利益追求集団へ与えたインセンティブを糾弾する動きを紛らわすための大戦略ではないのか。
 冗談はともかく、本気になってこの世代が最も太り、最もこの世の中をぶち壊してきたのだと書いている人もいる。最も恵まれた老後を送ることができるのは、どうみてもこの団塊の世代ではないことは明確だ。既に年金の受給年齢は繰り延べられている。しかも、どこまで貰い続けることができるのか甚だ不明瞭である。いや、まだ貰えることが分かっている団塊の世代は、そのシステムそのものが存続するかどうかも分からない世代から見ればそれだけでも恵まれている、ということになるのか。これでは目くそ鼻くその議論そのものである。
 なにしろ高度成長は団塊の世代が社会人となってすぐに破綻を来した。エネルギー危機、ドルショックと続いた頃、えらいことになったもんだなぁと思ったことを思い出す。ほとんど毎日私は客先との受注価格の変更交渉を地道に航空郵便とテレックスでやりとりしていた。そのうちみるみる受注量は減っていった。すると業界全体が構造改革が必要だとして横並びに生産設備を削減した。しばらく経つと私はその分野からはお払い箱となり、社内で異動となった。国内市場の好転がなかなか見込めないから海外市場を目指す、といった具合。バブルの頃は確かに今では考えられないくらいのむちゃくちゃな市場だった。何をやっても良かった。何をやっても必ず仕込んだ時よりは売る時の方が高く売ることができた。マネーゲームに手を出さない企業は経営者の怠慢だとまで思われていた。この頃は舵こそ取っていなかったけれど、原動力そのものであったことは否めない。ようやくわれわれの時代が来たと確かに思った。しかし、その後にやってきたのはリストラクチュアリングの嵐だった。そこからは一気呵成に能力主義成果主義というシステムの導入によって放り出されてきた。私が働いていた会社の場合でいうと、40歳を超えた時に第一回目の早期退職募集が既に始まった。その頃には管理職は既に給与カットされていたのである。そして50歳を超えると出向者はどんどんその出向先に移籍となっていった。今では多くの同期入社のメンバーがが社内子会社に転籍となり、そこから社内に派遣されているんだという。それなら全くフリーの形で社内を転々とさせることができるのだそうである。格好良くいえばフリー・ランサーか。
 団塊世代の退職によって仕事の上でのノウハウが継承されない危険性があるという点が語られる。生産現場では多くの場合数字に表すことのできない部分での人間のさじ加減によるオペレーションの調整というものは確かにある。これはいくらコンピューター制御技術が進んでもどうしようもない部分が存在しうるということである。しかし、どうしても人間でなくてはなしえない部分については現実的に定年60歳で技術者を放り出すことはあり得ない。継承できるところまで当然雇用は継続される。むしろ心配なのはそうした技術を抱えた中小企業が成り立たなくなる可能性の方であろう。
 やみくもに若い人たちが「職場を早期に明け渡せ!」と要求しなくても人は交代していく。しかし、ここで問題なのは労働する側の意識ではなくて、より交代しやすいシステムを作り出す企業、行政、組織の意識である。この先行き不安な社会保障政策の中にあって交代しやすい状況を生み出せているのか、といえばこれは「ノー」だろう。企業の存在とは一体なにゆえに存在しているのかといえば、狭い視野の中で考えると株主のためにあり、経営者のためにあるのだろうが、より広い視野で考えるとそこに働く労働者のためにも存在しているのであり、その企業にかかわる全ての人がある一面では社会を構成する一市民なのであるということから考えると、これは社会全体のためにも存在しているのだ、という認識は持っても良いのではないかと思う。(この項書きかけ)