ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

教育再生会議第二次報告

 「社会総がかりで教育再生を」がテーマの教育再生会議の第二次報告が出たんだそうである。中国新聞こちらでその全文を掲載している。しかし、私にはこれを読んでもどうもハッキリしない。とにかく「ゆとり教育」は大間違いだったから止めて、出来ることなら土曜日お休みは取りやめにしたいけれど、現場に合わせて10%程の授業時間を増やす工夫をしなさいということは提言している。しかし、どんなやり方でもいいから、というのはどうもこの国のこれまでのあり方から大きく外れることになる。一律なやり方は悪いから各地方ごとに考えてやる、というのは日本全国均等な教育が図られなくても良い、ということになる。本当にそれで良いのかなぁ。昔、神奈川県は中学生に「アチーブメントテスト」というものを課していて毎年それを受けていないと高校進学に際していろいろ問題が出た。だから途中から神奈川県に転校するのはとても不利だった。そんなことがあって良いのかなぁ。
 「国、地方自治体は、教育界に良き人材を得るため、教員の処遇を充実しつつ、公立学校の教員給与の一律の優遇を見直し、教員評価を踏まえたメリハリのある給与体系にし、頑張る教員を支援する」というこれはどうだ。ハッキリ言ってしまうと教員の労働環境は(多分ここの人たちは教職を労働と捉えるのは怪しからん、くらいのことを言い出しかねないかもね)、評価次第ということになるわけで、これは本来の意味の「教育」という枠から逸脱して不良小説家のやり方のように「うちは歌を唄わない奴は処分だからねぇ〜!」なんてことが大いに幅をきかせるというような傾向に拍車をかけるという危険性にお墨付きを与えるということになる。ひとりひとりが違っていても当たり前じゃないかという認識を否定しやすい、という危険性を犯す恐れがある。
 こういう話をすると確実に「そんなことをいったら何も前向きに変えていくことができないじゃないか」という反論が出る。こうした警戒感が働くのはなぜかといったら、「教育」という言葉を使って私たちの国はかつてひとりひとりを縛ってきたという実績があるからだ。そうした危険な匂いをかぎ取ってしまうからなのだ。
 私たちが高校生の終わり頃、“教育は人格の完成をめざすものであり,人格こそ,人間のさまざまな資質・能力を統一する本質的な価値である。すなわち,教育の目的は,国家社会の要請に応じて人間能力を開発するばかりでなく,国家社会を形成する主体としての人間そのものを育成することにある”としていたいわゆる「期待される人間像」なんてのが声を大にして語られた。なんだかやっぱり似ているような気がするのだ。