Yosemite Lodge at the Fallsの朝は涼しいというよりも寒い。毎日バスに乗っている時間が長いけれど、歩いてもいるものだからよく眠れる。
ようやく大都会に出るときがやってきた。Death Valleyから最後はLas Vegasに到着する日だ。Yosemite Valleyから見る周囲の山々は先端が朝日に当たって光っている。Bridal Vale Fallsは相変わらず見事に水しぶきを上げている。バスはTioga Roadを登っていく。Taioga Passを越えてMono Lakeに出るのは28年前に来た時と同じだけれど、あの時は395線を左に曲がり、Lake Tahoeを目指した。今度はDeath Valleyを目指す。途中で遥かにHalf Domeを反対側から見ることの出来るルックアウト・ポイント、Olmsted Pointで大休止。気持ちの良い風景を前にして気持ちの良いひとときを過ごす。その後もTenaya Lakeを目の前にして一同我慢が出来ず遂にガイド氏を説得して下車。写真を撮りまくる。人のことはいえないが日本人は本当に写真が好きだなぁ。いや、そうじゃなくて写真の好きな人が旅行に来るのだろうか。それとも人がそっちに動くとどうしてもそっちに動いていってしまうのだろうか。そうはいっても他の国の人たちだって結構カメラを振り回しているし、Yellowstoneでは動物を見付けては、飛んでもなく長いレンズを車の後ろから取り出す人を何人も見ているよなぁ。うん、日本人だけじゃないんだよ、カメラ好きなのは。
とうとう峠道を下りきってしまうとそこから先は明らかにそれまでとは異なる風景になっていく。その始まりを告げるのがMono Lakeなのだけれど、その角にガソリンスタンドを兼ねた結構な規模のお土産屋さんが存在する。何が私にその気にさせたのか知らないけれど、Death Valleyの地図を買わせた。これがなんと意外に正解だった。というのは私たちは395号線をひたすら南下し、Olanchaの手前を左に曲がって190号線を東に走りDeath Valleyに突入する。Visitor CenterがあるFurnace Creekに至るまでには結構あって見所もいくつも通り過ぎるのだ。この砂漠の一帯にある見所って一体なんだよという気にもなるけれど。そして、そのVisitor CenterまでやってこないとNational Park Serviceのオフィシャル・マップは入手できないのだ。その土産物屋で結構しっかりした木綿のトートバッグを買った。Yosemiteの文字とBlack Bearの絵と文字が入っているもので、実際にBlack Bearと遭遇した自分としては意味のあるもののつもりだったのだけれど、その後行ったどこの土産物屋にでも同じデザインのトートバッグを売っていて実にこれはがっかりしたものだ。
395号線は一昨日に入っていたSequoia National Parkに繋がるシェラ・ネヴァダ山脈の東側を南北に走っている。6号線が合流するのはBishopの街で私たちは11:25にこの街を通過した。連なる街並みはほとんどが平屋でまさにカウ・ボーイの街という匂いがぷんぷんとする。スタンド付きの大規模なRodeoの会場がバスからもよく見える。その周りには馬を運んできたキャリアーの横にキャンピングカーを持っていてなんだか賑やかだ。2000年の国勢調査時点で人口3,575人とWikipediaに書いてあるんだけれど、そんな街にある「Yamatani」という日本食屋は本当にやっていけているのだろうか。
昼食はLone Pineで、という話だったのだけれどもその手前のIndependenceという随分張り切った名前の街〔人口わずか574人。独立記念日には注目されそう〕を通り過ぎてすぐの右手にどこかで見た石垣を見付ける。Manzanar National Historic Siteである。「シェラ・ネヴァダ山脈の山を見て富士山を想い出した」という記述が当時の収容者の言葉として残っていたという。日本人のバスツアーとしてはこの史跡をただ通り過ぎるのは如何なものか。
12:40になってようやくLone Pineの街に到着した。Carl's Jr.の北側に公園があって多くの人がtake outして公園の木陰で食べていた様だ。私たちはここでBBQ Chicken Burgerと「一番シンプルなバーガー」といってBig Humburger(それでもbigがつくのかよぉ・・)を発注。途中でガイド氏がここにはズッキーニのフライがあるんだといっていたのを思いだしてそれも注文した。これはちょっと衣が脂っこすぎて、衣を外して中のズッキーニを食べたけれど、つまみとしては変わっていて面白い。お客の中にはごく普通にテンガロンを被ってブーツを履いた若者がバーガーを食べている。
ここの裏からはわずかに「アラスカを除いた全米の中で最も標高の高い」Mt. Whitneyが頭を覗かせている。この山の名前は私自身は相当に昔から知っている。知ってはいたけれど、それがどこにあってどんな意味を持っているのかほとんど知らなかった。日本のフレームザックメーカー(今でもそんなものが作られているのかすらもう知らないが)の製品名にこの名前があったことを記憶している。あれも1970年代の話だ。それにしてもこの界隈はもう相当に暑い。
190号線に入るといよいよDeath Valleyが始まる。くねくねとしていてその上でこぼこそのままに造られている道路は相当に運転しにくそうである。へたをすると飛び出してしまいそうだ。上り下りそれぞれに一車線しかないし、その上結構上り下りがある。その上周りの景色は土色一色だ。これは疲れそうだ。砂漠に半年いた時には道路を運転している時は皆良く睡魔に襲われたものだ。多分あの道路の事故原因の半分はタイヤのパンクだっただろうけれど、残り半分はほとんど居眠り運転だったのではないかと思う。現にプロジェクトで雇っていたパキスタン人のある運転手は道から外れ、転がったけれど、そこがそのまま砂だったので、誰一人として怪我をしなかったという幸運な事故を起こしていた。私たちの乗っているバスはめいっぱい大きい。これが転がったら相当なダメージになるだろう。そう考えると結構怖ろしいものがある。
14:25 この地域に大層貢献したという牧師のFather John J. Crowleyを記念したモニュメントを通過。
ハタと気がつくと前方の道がまっすぐで一気に下っている。そしてその直線道路が一番そこの何やら白くなっているところを境に一気に登っていく。その先は山だ。砂漠の所々になんとも気味の悪い小さな木の様な物語っている。Joshua Treeと呼ばれているものらしいが、なぁんの役にも立たないと説明される。そんなことはなくて、この殺風景なところにボツボツと立って、立体感を表してくれるだけまだマシなんだけれど、あんまり好きになれるタイプではない。もうひとつ、煩雑に現れるブッシュにはCreosote Bushなるものがある。あの防腐剤のクレオソートのことだというのを聞いてびっくりしてしまった。えっ!正露丸のクレオソートとはこのことだっただ。私はさすがにやってみなかったけれど、葉っぱを手にとってはぁ〜と息を吹きかけると、見事にあの正露丸の匂いがするんだそうだ。ところで、正露丸と征露丸はどっちが正しいのだったか、それともそれぞれが別物だったか。
14:35 標高3000フィート地点を通過。Death Valleyは国立公園ながら豊富に存在するborax、つまりホウ砂を盛んに掘り出しているだけでなくて、マンガン鉱も産出しているというのだから不毛の地なんかではないのだ。
15:20 海面レベルにあるオアシスの街、Stovepipe Wellsに通りかかる。ここはまだカリフォルニア州で、勿論1000m位の滑走路を持っている。この先を道は左に曲がり、30km程行くとそこにVisitor Centerがある。そこには待ちかまえていたかの様に寒暖計が備えてあって、「ホウらぁ、暑いんだよぉ」と教えてくれる。私たちがついた時にはその寒暖計は日陰にあるのだけれど47℃を指し示していた。実のところをいうと見たくもないのに見て、その上証拠写真まで撮ってしまう。トイレに行くと大きな扇風機がぶうぅん、ぶうぅんとまわって熱い風を吹き付けていた。ここからバスはまた25-26kmほど南下して全米で最も標高が低い、つまり海面下86mの地点に行く。多分この界隈にやってきた人たちはみんな見ているだろうところで、道路の横の崖に海面地点のボードがかかっているのが遥かに見える。ここがBad Waterなる場所で遠くの方まで塩で真っ白だ。そこここにぽこっと穴が開いていてそこに水が見えるがこれがしょっぱい。こういうところにもBrine Shrimpという海老が生息しているんだという。そういえばUtahのGreat Salt Lakeにもシュリンプが生息しているという話だったなぁと思い出す。
今度は道をまた戻って、さっきは右手に見えていたDevil's Golf Courseなるものを見に行く。さて、それはどんなゴルフ場なのでしょうという説明だったのだけれど、要するに辺り一面塩分が結晶化する時に出来たでこぼこなのである。さぞかしこんなところでゴルフをやったら大変だということなんだろうけれど、そんなこと考えたくもない。先ほどのStovepipe WellsのそばにはDevil’s Cornfieldなんていう地名もついている。それにしてもこんなところで仕事をするくらいなら、あのサハラ砂漠の真ん中の方がまだマシだと思えるくらい、ここは実に不気味だ。
私たちは一旦Furnace Creekまで戻ってから190号線をとり、Death Valley Junctionで127号線に入ってShosoneで178号線に折れて州境を超えてPahrumpの街を通ってLas Vegasに向かう。このPahrumpという街はなんとも荒れた感じのする街でそれでもNevada州だからダウンタウンに入っていくとショッピング・モールの他にもなんだかおどろおどろしい感じの、日本でいえば田舎町のパチンコ屋の様な建物が目につく。モルモン教徒のガイド氏が面白くなさそうな云い方をしているので分かったのは、この街は売春宿で成り立っているということなのだった。アメリカという国の側面はいやでも見えるというものだ。ここからは160号線を一気にLas Vegasに向かっていく。道路の両側には近くあるらしい判事の選挙の候補者のポスターが目立っていた。
この3日間の走行距離数は1,762kmに及んだそうである。ここで参加者18名のうち仙台から来られたお母さんと娘さんの二人連れ、そしてどちらから来られたのか聞き漏らしたけれど老夫婦と娘さんの三人連れの5人がこのツアーから離れる。
Las Vegasの大通りはどこからこんなに人が出てきたかと思うほどの人が歩道をあっちに行ったりしており、車はなかなか動かない。ガイド氏によればここは歩行者の死亡事故が最も多い街なのだそうだ。ようやくチェックインが終わったのが21時になんなんとする頃である。疲労困憊ですぐにでも何かを食べてネットをチェックして寝たい。しかし、21時15分にガイド氏がやってくれるという「レクソール・ホテル」のカジノ案内に連れあいが参加したいという。私はカジノに全くの興味もないので全く出るつもりはなかったけれどつきあう。なにしろこの街に来たのは最後が1970年なんだから今の私にとっては未知の街、未知の施設に来ているようなものだけれど、ばくち場にはばくち場固有の感覚があるものと見えて根本的には昔と大して変わることはない。私はブラック・ジャックでどんどん緊張感を勝負していくつもりはないし、バカラはわからないし、ポーカーなんてとんでもないし、ルーレットをやるにはあまりにも元手がない。ここにはもうKENOなんてものはありそうもないから、結局はスロットルをがちゃがちゃやるだけで、案内なんて全くいらないのだ。結果的にはcoffee shopでツナサンドとサラダとオニオンスープをシェアしたわけでそれが終わったら23時を過ぎていた。
この街のホテルはあくまでもカジノで遊ぶ人間に焦点が絞られているから大都会のビジネスユースのホテルと違ってあたりまえか。このホテルにはインターネットの無線LANは走っていないし、どんな田舎のホテルに行っても必ず置いてあるコーヒーメーカーすらおいてない。コーヒーを飲みたかったら下まで降りてこい、ということなのだろう。そうすればついうっかりスロットルに25セント玉を落とし込まないとも限らない。
1979年にある街でホームステイをしたときにそれぞれの家族がいかに地味な食生活を送っているのかはイヤというほど見届けたはずなのだけれど、さすがにあれから28年も経ってしまって米国人はまったくそうした生活をやめてしまって何が何でもこれでもかという分量を呑みかつ喰い、そして消費しているのだとでもいうのだろうか。私たちは何かを食べるときにほとんど米国人が食べる一人前の量を二人でシェアしている。それでも米国でもシェアして食べるのは珍しいわけではないらしい。その証拠に一昨日国立公園のレストランで夕食をとったときに、「シェアをするんでこれとこれ」と注文したら、メインのプレートをきちんと半分に分けてきて、付け合わせはそれぞれ一人前ずつを盛ってサービスされた。伝票を見たらshare plateと書かれていて3.50の値段がついていたくらいだからそうした食べ方をする人がいないわけではないらしい。
それでもファスト・フッドの店や、こうしたcoffee shopでごく普通の米国人が食べているのを見ていると、「オイオイ、そんなに食べるのかよ」といいたいほどの量を嬉しそうに平らげている。それでいて巷間よく引き合いに出されるように、ジムではまるで何かにとりつかれているかのように黙々とウォーキング、ランニングに励んでいる人たちであふれかえっている。静かなのにわぁんわぁんとしているかのようにすべての機械が動いているのはなかなか壮観な眺めだ。
一度それだけの量を食べ始めてしまうと人間はもう元には戻れないものなのかも知れない。先日の小錦ではないけれど、なんと胃袋を手術して縮めてしまう人までいるというのだから驚きだ。
今回の旅でご一緒させていただいた私と同年代のあるご夫婦はお二人とも10年ほど前に胃を病んでそれぞれ1/4、1/3を残して切除してしまわれたそうだ。そうすると胃はもう再生することはなくて、小腸が機能を代行する、ということなのだそうで、そういう方たちのことを考えると何もすき好んで胃を切除しなくても良さそうである。
誤解を恐れずに敢えていうとすると、米国という社会は金を充分に持たないものから金を大いに取り込んでいる層が寄ってたかって何から何まで端から端まで、取り上げられるものは全部取り上げてしまうという社会であるという印象が強い。
大きいものは家から車からどんどん買わせ、小はハンバーガーからコーラまでどんどん呑み喰いさせる。そして本人たちは病気になったら大変だからと気がついて各種の業界に行って金を使う。それがジム業界であり、民間の医療保険でもある。つまり、とことんまで遣い果たさせる。それでどうにもならなくなったら、それこそ最低限の社会保障制度を稼働させる。つまりなんだかんだいってもアメリカという国は金持ちがやりたい放題のことをやるために作られたシステムで運営されている国であることを今回はジャンク・フッドで確認したということなのかも知れない。
「すごいんだぜぇ、アメリカは。何もかも大きいんだよ、がんがん食べる量がそりゃ半端ねぇんだよ」なんてことを言ったのはとうの昔である。今でも確かにアメリカを巻きこまなくては、この世界を変化させることはできないはずだ。それなのにこの国はあの条約も批准しないし、あの宣言に加わろうともしない。その理由ははっきり言ってしまえばそんなことをしたら今この時点での儲けが激減するからであることは全く明確である。
地球の環境保全についても、米国だけではないけれども、どうにかしなくてはならないだろうとうすうす気づいていながら、政府自ら京都議定書に全く前向きではないし、人間の根幹の問題である人道に関する様々な考え方についても「経済」という名前の「金儲け」を優先していて平気だ。これは今生きている自分のことを考えているだけで、ここから先につながる子どもたちはどうでも良い、極論をすると消滅してしまったって良い、それはそれでしょうがないじゃないか、という思想である。
14日(土)のセコイア国立公園の「グラント将軍の木」の前で話をしていた初老のレンジャーの話がとても気になった。「誰でもがこの星の現状を語ろうとするときに意識的にunder-estimate、つまり軽めに見ようとする。しかし、この地球上でこうした状況を冷静に見つめることができるのは私たち人間だけなのだ」というのである。彼はそこから続けて「ではいったいそれを誰がやるのかといえば、それは私たちでしかないのだ。あなたでもない、一人一人の私なのだ」というのである。その話が終わった瞬間にその周りを囲んでいたレンジャー・ツアーへの参加者は一世に無言のまま、しかし力強い拍手をした。
博打というものにハナから関心がない私はそもそもLas Vegasに関心が希薄。自分が宿泊したルクソールというホテルは4000を超える部屋がある。中には7000室を超えるホテルすらあるのだそうだ。こうなるとホスピタリティ、というものはもう存在しないのではなかろうか。ホテルで働く従業員ですら自分が今働いているホテルの全体をつかむ意識なぞ全くないだろうし、事実そんなものをつかむことは全く不可能だろう。レセプションには常に長蛇の列ができていて、あたかも空港のチェックインのようである。その上レセプショニストのご機嫌は全員悪そうだ。何かがあったらすぐにばっさりと切られてしまいそうだ。目鼻の効く人であれば、強気に出ることもできそうだけれど、普通の人間はこの期に及んでここでまたごちゃごちゃもめるのはイヤだ。その力関係が彼らを調子づけてしまうのかも知れないけれど。
Coffee Shopに入ってみると、サービスをしている人たちはこちらでも不機嫌そうである。そもそも人が少ないし、働いている人たちのほとんどがメキシコ系のようで、喋る言葉も訛りが強くてヒヤリングにそれほど強くないこっちにとっては難問だ。「付け合わせは何にする?」「ドレッシングは何にする?」という選択の時点でも、彼が繰り返す種類はほとんど呪文のようだ。無表情のまま呪文を繰り返されたらこちらはもうお手上げ。チェックをしたくても係のウェイターは私の目や手の動きをできるだけ後まで無視しようとしているかのごとくである。とはいえ、それは私が御しやすいからに他ならない。つまりなめられちゃっているということだ。その証拠に隣のテーブルに座っていた、ひとりは両腕に入れ墨し放題でタンクトップを着た男を含む35歳前後の男三人組には笑みもこぼれてしまったというくらいだ。38年前のあふれるばかりの笑みで「Everything all right ?」と聞きに来たウェイトレスの表情が実に懐かしい。
お客の方も相当で、学校がそろそろ休みに入るこの時期に、ホテルの中には幼い子どもをすら連れた家族連れが夜遅くまで遊んでいる。偉そうなことをいう訳じゃないが、こんなところでこんな時間まで子どもを連れ歩いている親が信じられない。彼らは自分がそうしたいから子どもたちを巻き添えにしているように見える。あくまでも自分たちが中心で、子どものこともあわせて考えることができない。これは例の地球環境の問題と全くもって同じだ。まぁ、いいかぁということだ。そんなことをいってもこれは彼らだけの問題ではなくて、地球規模の問題につながってくる。