ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

Hobart → Strahan

 しばらくネットに繋げることは難しいだろうことが予測されるので、長距離ドライブに出る前にGrand Chancellar Hotelに寄って5ドル払って1時間のネット接続をする。codeをもらうのだけれど最初なかなかinvalidと表記されて繋がらない。しびれを切らしてボーイを呼んで見てもらうと繋がらなくて当たり前。私が「N」だと思っていたフロントの男性の手書きが実は「W」だったのである。
 実はこのルートを辿るのは10年前に続いて2回目である。しかしながら、今回のドライブは人間の記憶なんて本当にあてにならないことを証明するために走ったかの如くである。まず、ホバートからA-1を辿る。河上の橋のところで左側にはいるルートを取る。これがA-10でここは何となく見覚えがある。ここから先は殆ど覚えがない。Hamiltonという街で給油をして新聞を買う。「Weekend Australian」である。そういえば先週の日曜日はSydneyで乗り換えの飛行機を待つ間にSydney Morning Heraldの日曜版を買ったけれど、second partは要らないといっておいてきた。
 つぎのOuseの街で小腹を満たそうと「Lemon Roll」なるものを買う。外側にココナッツをまぶすのがどうやらオージーの方は好きらしくて、これにもまぶしてある。しかし、これを買ったときに旦那に「お宅にはサンドイッチは置いてないの?」と聞くと斜め前のCaltexの表記があるところで買えるという。いってみると消防自動車の車庫の隣でまぁ、いってみれば何でもありでFish & Chips屋のようなものである。そこにサンドイッチのパックがあったので、迷いもせずにハムとたまごを取り出して買い、その場で食べてしまう。まだ12時前だったけれど、朝ご飯が7時だったから実に空腹だったのだ。
 昨日は21時半には寝てしまい、目が覚めたのは午前0時を回っていた。そこから多分2時間ほど目が覚めているのか寝ているのかわからない状況でいたようだ。少なくとも午前4時頃にはまた寝入っていた。目が覚めたのは午前7時の目覚ましの音だったのだから少なくとも7時間ほどは寝たはずで、長い距離のドライブにも充分に堪えることができた。
 今回のこのドライブで徹底してやりたかったのは写真に撮りたい状況を見つけたらすぐにでも車を駐めて写真を撮る、ということだった。相棒がいる旅がいつでも一番楽しいのに決まっているのだけれど、こうしたことをしようと思うときはやっぱり相棒が居たら気を遣って、突っ走ってしまう。タスマニアの田舎に行くといつでもそうなのだけれど、どんな道でも制限時速は原則的に100km/hだ。ただし、その範囲の自分がコントロールできる速度で自己責任で走れということで、何が何でも100km/hで走れ、ということではない。そしてそれが80km/hの表示が来て、60km/hとなればそれが村に来たという印である。所々の急カーブには黄色い表示で35km/hなどと表記してある。
 そんなわけだから私はマイペースで走る。滅多に来やしないけれど、私の後ろに何が何でも速く走りたいという車が来るから、そんなときはそんな場所を見つけてやり過ごしてやり、私はその後ろをのんびり走る。中にはそんな私に「ありがとう!」の警笛を鳴らして追い越していく奴もいることはいる。
 とにかく最も写真に収めたかったのはFranklin – Gordon National Parkの世界遺産と指定されている景色だ。多分前回も写真に撮ったはずなのだけれど、デジタルではなかったらしく使い回しができるようにはなっていない。今回スキャナーを入手したのだからできればあの辺のフィルムを取り込んでデジタル化しておきたいものだ。
 驚くことにA-10から見える世界遺産のCradle Mountainもまだまだ雪を被っているのだ。そのうち、こちらの道も両側に雪が見える。もうすでに11月もなかばとなって巷では初夏を通り越しそうだというのに、まだ雪、それも昨日あたりに降ったと覚しき景色である。そういえばHamiltonやOuseの街でまだ木を燃やしている煙が上っている家を何軒か見た。車の温度計は最も寒いときには4℃を示したほどである。
 Queenstownの露天掘りの跡を見ながら余り楽しそうでない景色をまたまた目の当たりにしていたものの、その峠を下りはじめると、それはそれは断崖絶壁に造られた道路で、峠の頂上にその道が造られたことを記念したケルンが立っているのは道理だとわかろうというものであった。それ程恐ろしい道である。ひたすら対向車が速度を上げてこないことを願う。普通の人だったらなんと言うことはないのだろうけれど、私はどうしようもない高所恐怖症だから余計に怖い。
 前回の記憶ではQueenstownまで来てしまえば後はお手の物だったような記憶なのに、今回道標を見るとStrahanまでは48kmもあると書いてある。そんなに距離があったのか。しかもこの道がずっとくねくね道であたかも北軽井沢から軽井沢へ降りる道というか、碓氷峠の旧道というか、そこまではいかないまでもくねくねである。我慢して走るが、こりゃひょっとしてずっと終わらないんじゃないかと思うほどくねくねしている。それが急に突き抜けると、そこがStrahanの街だ。海辺のEsplanadeという通り(海辺にある街に行くと必ずこの名前の通りが出てくる)に今晩泊まるStrahan Villageがあると標識に出ている。その通りにいくとそこにReceptionと大書した建物がある。前回泊まった宿泊施設とは全く違うようだ。そこでregisterすると受付の女性が車のまま上にあがってくれ、そうするとそこに宿舎が並んでいるから自分の部屋番号を探し当ててくれという。車で上がっていくと、それは前回泊まった宿舎そのものであった。前回は建物にそのままフロントが付いていたのだけれど、わかりにくかったからか、受付だけ下に降ろしたということだった。安いレートでとったものだから、案の定部屋は海と反対側だった。多分死ぬまでこうした宿舎のwater viewとかocean viewなんて部屋には泊まることがないのだろうな。
 ここの宿舎ではiPieとかいうシステムが導入されていて1時間に$6.00で繋げることが可能だ。ここまで来てネットに繋がるとは思っていなかったので、ちょっと見直す。さすがに小さな街だけれど、よく知られたリゾートだけのことはあるということか。ここからはGordon Riverという川をさかのぼり、樹齢数百年といわれる(もっとか?)Huon Pineの木を見に行くクルーズが名物である。前回ゆっくり見たから今回はひとりでもあるし、乗らない。その代わりに北西の外れの街を目指す。
 久しぶりにディナーといっても良い食事にありついた。普通の時はひとりでとてもレストランに入る気持ちにはなれないからこんなリゾート地のbuffet dinnerなら大した抵抗もなく入ることができる。尤もこんな場合は往々にして決して安くないから辛い。こうしたリゾート地に来ると泊まっている人たちの80%位は70代—80代のお年寄りで、ここでもそれは例外ではない。なにしろ先の大戦でなくなった豪州兵のうちの三分の一は日本軍の捕虜だった人たちだという話を聴いてしまったのでますますこうした高齢者の人たちが愉しんでいるところに来ると考え込んでしまうというものだ。こうした話を聴くとかつて街中で向かいから来た豪州人のおじいさんが私を見て日本人かと確認し、いつの生まれかを聞きたかった理由がわかるし、隣に住んでいた、戦時中はパプア・ニュー・ギニーにいたというアーサー爺さんがわざわざ「Now, we are friends.」といった理由がわかろうというものである。
 先日本屋で「Australian Prisoner Of War」についての書籍を見つけた。するとこれは日本軍にどれほどの目に遭わされたかという話なのかと思って前書きを読んでみると、なにしろ豪州軍はボーア戦争以来ありとあらゆる戦争に出兵しているから、この中にはもちろん日本軍によって捉えられた捕虜経験者も出てくるのだけれど、朝鮮戦争で中国軍に捉えられた人々も、そしてベトナム戦争北ベトナム軍に捉えられた人たちの話も出てくるのだった。
 ここのダイニングは港を見下ろす高台にあって夕方は沈んでいく夕陽が見えるのだけれど、惜しいかな水平線に沈むところは見えない。しかし、どこに行っても港に船が停泊している姿はとても美しい。綺麗に塗装され、弾き込まれたギターがスタンドに立てかけてあるのをためつすがめつしてみるのと同じような美しさを感じる。