アジア太平洋戦争が終わって以降、今に至るまでの日本の政治というものは自らの利益のためになる手段をどのように確保するのか、という観点から発想されてきた。それが何も縁を持たない、何もきっかけを持たないいわゆる普通の市民にとってはどうしようもないけれど、そうした利権を確保する手段をどうにかこうにか手に入れてしまった人たちにとっての政治であったなぁという気がする。
そして、そうした手段を手に入れた人たちは、そのためにある種の行動を起こし、渡らなくてはならない場所を渡ってきたんだから当然なんだと本人たちも思っていたし、それを見ている側もそう思っていた。つまり、儲けようとする人たちがその手段をつかみ、それが勝ち組であって、それをつかむことのできなかった人たちは負け組で、それはそれで仕方がないと思っていた。
しかし、ひょっとしたらそうした既得利権を数に頼んで我がものとして取り込んでしまうやり方はおかしいんじゃないのか、という価値観を青臭いとして投げ捨てるのではなく、本当に考える時が突然来るかもしれない。いやいや、そうした雰囲気を醸し出して、油断させておいてガッツリ持っていかれちゃうのかもしれない。良い学校といわれていたところから良い大学といわれているところに進学して、給料の高いところに行った人間が努力したとしてその後も優遇されていくシステムが、そうしたシステムの中にまさに存在している人たちによって維持されていたものが、がらっとひっくり返る時が来るのかもしれない。
人を集めた奴の勝ちだというのは何か違うのかもしれないという気持ちを持つ人が増えてくるとまた違う価値観ができるのかもしれないのだ。
私が子どもの頃は何が何でも東大を中心とした旧帝大に繋がる私立進学校、あるいは公立進学校に進んだメンバーがその既得権確保集団に受け入れられていた。そうでないところにこぼれるとその他大勢の部類に入ることになっていた。「そうするように頑張らなかったんだからしょうがないじゃないか」という価値観の中にあった。そうでなければ、人がやらない仕事、あるいは行為によって隙を見て金を集めるしかなかった。それでも金さえ集めれば人はいうことを聴くのだった。ということは結局は金を持った奴の勝ちで、すべてはそこに繋がる世界だった。
ひょっとしたらそうでないことに価値観を見いだす、つまり金という尺度を持たない世界観というものが、まともに語られる時代が来るかもしれない。
なんでそんなことを思うのかというと、資本主義は嘘で金を集めるんだということが分かってしまったからだ。
・・・そんなわきゃないか・・・?