ほぼ足りてまだ欲 その先

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今週のお題 父親/父の日

 私と父親との間を語るのは、そりゃあ骨だ。なにしろ様々なひねくれた関係が錯綜している。
 彼は瀬戸内の水飲み百姓の、それも三男として明治44年に生まれた。当然受け継ぐ家作なんてものはない。その上両親を早く亡くしていたから婆さんに育てられ、歳の離れた長兄が父親代わりだった。なんの法事だったのか、葬式だったのかもう覚えていないが、私が小学校低学年の頃にその生家に二人で行った時、その長兄がまだ生きていたのを覚えている。あの22貫目もあった親父がでかい面をしていなかったのが不思議だった。つまりそれだけ長兄の力によって学校を出して貰ったという恩義があったのだろう。今ようやく気がつくのだけれど、私はその小学校低学年だったにもかかわらず分家の跡取りとしてそこに列席したのかもしれない。
 彼は(私は思春期を境に親父のことをこう表現するようになった)からだに似つかわしくない綺麗なノートをとっていたことが残された大学時代の資料から窺えるが、死の間際まで書き残した日記はもう俄には判別できないほどの繋がり文字である。とっておいてあるけれど、未だに読み取れない部分がある。
 彼は私が三番目に生まれた長男であることを相当に喜んだらしいが、私に我慢強さがなかったところを随分と嘆いていた様子が見える。自分が国立の理系を卒業していたのと同じような道に進ませたかったらしい。ところが私は高校に入ってからすぐに始めた英語の塾に傾倒していって、どんどんその道に嵌ってしまったものだから忸怩たる思いを抱えていたらしい。ついには酔っぱらって帰ってきた晩に先輩を連れてきて私に二人して説教をしだした。社会人になってから私の保証人になってくれたのはその親父の先輩である。
 私は語学を専攻してそっちで活路を見いだしていこうと思い立ったものの、彼はそれを許す気は全くなかったようだ。結局は当たり障りのない経済学部に進学してろくに勉強しなかった。
 今ではとても考えられないけれど、当時はそんな風潮は当たり前だった。高校時代にしきりに絵を描いて美術系を目指していた友人も後で気がついてみればごく普通の学部に行ったといい、今になって絵に帰ってきている。だから、私も同様だけれど、今の60代が学校に戻ろうとするのかもしれない。
 彼は何度か大病を患った。腹部大静脈瘤をとって血管のバイパス手術をした時は無理かもしれないと思ったけれど、立派に立ち直って、当時の医者に「君の親父は長生きするぜ、あれでまだゴルフだっていっているじゃないか」といわれた。
 その親父がある日実家に行ってみると、座敷の北の壁に大きな神棚を構えた。それまで宗教心なんてこれっぱかりも感じさせることのなかった人で、教会に行っていた子どもを馬鹿にしていたくらいだった。しかも、そればかりか、散歩だといって実家から歩いて行くと20分くらいかかる神社に良く出向き、本殿の前で長い時間をかけて頭を垂れていた。どこか奈良の方の神社からたびたび封書が届いていたから相当に入れこんでいたことが窺えるが、なんのことか、こっちも聴かないし、あっちもいわなかった。
 多分長姉はなにかを聴いているのかもしれない。彼女は父親を盲目的に慕っていて何があっても父親は正しいという価値観を持って育ち、支持していた。だから、勢い他の二人の子どもは家族共々比較的疎遠になりやすい。しかし、そこに次女が夫を亡くして二人の孫を連れて帰ってきた。こうした時には義侠心を出してしまうのが父親だから、丸抱えになる。
 そこが長姉にとっては父親を奪われた気持ちがするのだろうか。
 父親の最後は病院だった。私は彼がそこに入院していることすら知らされなかった。黄疸症状を呈して入院し、カテーテルを胆管に通している時に操作を誤って肝臓から出血し、失血死をしたそうだ。
 私が駆けつけた時にはもう意識がなく、そのまま明け方に息を引き取った。本当に突然逝ってしまったので、なにも聴くことができなかった。
 我が儘で頑固で職場でも相当にワンマンだったに相違ない。あの頃なにかといってはうちに来て宴会をしていた親父の仲間も、もう殆ど残っていない。あの人たちの宴会といえば、箸で皿を叩いて高歌放吟だった。芸のない世代だった。酔っぱらった親父連中に捕まると酒臭くて、たばこ臭くて、そして握る力は強かった。
 この季節になると、あの時代の人たちが着ていた麻のスーツや、パナマの帽子、そして白いキャンバスの靴を想い出す。今そんな格好をしていたらお洒落だなぁといわれるんだろうけれど、とても高くて手が出ない。
 中学生の頃、親父が酔っぱらって帰ってくるのは大歓迎だった。それは小遣いをくれたからだ。子どもは残酷だなぁ。