ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

今週のお題「私のふるさと」

 そもそも「ふるさと」ってなんだ?そこから始めないといけないことになってしまう。例えば生まれ育ったところなんだとすると、ずっとそこで生まれて育った人はわかりやすい。ま、高校を卒業するまでほとんどの人は自宅から通っていたんだろうから、それまでいたところってことになる。
 ところが私は高校を卒業するまでに引っ越したのが4回あった。一番長く暮らした場所ということにしたらそれは18年間のうちの10年間を過ごした神奈川県の某所ということになるのだろうねぇ。しかし、それも昨年母屋を倒して、土地を分割して売り飛ばしてしまったからものの見事に喪失だ。ご苦労さんなのだ。ところがどうもその「ふるさと」を失ったという気持ちが全くしない。
 随分冷たい奴なんだなということになるのかも知れないけれど、全く執着心がない。全く手を付けずにそのまま次の世代へ渡したいと思っていたのだけれど、世の中そんな上手い具合に物事は進まないので、あ、もうこれはしょうがないやと思ったと同時にそんな執着心というものを諦めた。こういうところが「根性なし」といわれる所以なんだろうな。
 あの場所で想い出すのはペットたちのことばかりだ。
 今でいったらゴールデンリトリバーの雑種みたいなメリーという犬が最初に私のそばにいたペットで、彼女は時々(誰が父親か知らないが)数匹の子供を産んだ。それはそれはかわいい子犬どもで彼女が本当に舐めて育てていたのをとても嬉しく見ていた記憶があるけれど、それは私が小学生の頃までだった。
 一方猫もかなり幼い頃からいて、あれは一体どこからやってきたのか知らないけれど、やはり雌だった。ある日これまた誰が父親かわからないけれど、数匹の子供を産み、子どもたちがとても嬉しい毎日を送っていたのに、ある朝目覚めると残酷にも殺されていたことを想い出す。よその猫(一節にはそいつが父親だというが)が家に侵入して喰い殺したのだと説明され、随分激しく泣いたことを覚えている。
 小学生低学年で陽転してしまって家で隔離療養をしていたことはこれまでに何回か書いたけれど、その時に親父がなぜか秋田犬の雄を買い始めた。「賢」という名前は誰が付けたのか知らないが、なかなか凛々しい、格好良い名前だった。彼の散歩は大変だった。しかしこいつも2回の引っ越しの後、ジステンパーにかかって死んだ。メリーは引っ越しには帯同させてもらえず、われわれの留守にその家に住んでいた親戚に面倒を見てもらっていたのだけれど、死んだといわれただけで実際その最後がどうだったのか、私は知らない。
 また引っ越して戻ってきたときに、ロリーという名前のコッカスパニエルを知り合いの家から貰った。彼とは結構遊んだ。ろくに勉強もしなかった大学にもそこから通っていたがその間、彼とは随分想い出がある。
 しかし、残念なことに当時その地域で流行ったヒラリアにやられてしまって、逝ってしまった。みんな出掛けてしまって彼しか残っていなかった家に帰ってくると、彼の泣き声もしなくて、おかしいなぁと彼がねぐらにしていた縁の下に行ってみると、もう冷たくなっていた。ひとりで泣きながら庭の片隅に延々と彼を埋葬するための穴を掘った。泣けて、泣けてしかたがなかった。ひとりで死んでいった彼が不憫だった。
 私にとっての「ふるさと」というのはひょっとしたら彼ら犬、猫だったかも知れないなぁ。