8歳年上の夫を見送ったあと、しばらくして、うちのお袋はパーキンソンで入院した。夫婦でずっと昔からお世話になっていた病院だ。しかし、3ヶ月経ったらもちろん、追い立てを食った。長姉はメディカル・ソーシャルワーカーのいうがままに、有料老人ホームにお袋を移した。ところが長姉がどこまで条件を聞いたのか知らないけれど、いってみたら、多少精神的に混乱を来していたお袋を施設は半分邪魔者扱いだったようだ。本人も嫌がっていたようだった。しかし、長姉はなにかお袋に対する恨みがあるのか、とても邪険にした。お袋が長姉と病院に行くのに同行した私の連れ合いが、どうもおかしい、一度行ってみた方が良いというので、私も同行してみた。すると、とてもつれなくしている。挙げ句に薬局の前で薬が出てくるのを待っている間に、お袋が車いすの上から、長姉に「ねぇ、まだかしら」と触ったら、突然むげない言葉を投げた。それで、これじゃダメだと私も納得した。
すると、下の姉が「わかった、とことん見る!」と宣言してお袋を家に連れ戻した。それからお袋は次女夫婦と一緒に暮らした。彼女から手伝って、というリクエストが出たらこっちから駆けつけた。
下の姉はおふくろが時として記憶がはっきりした時に、小さなカセットレコーダーを回して録音をしていた。その中にはお袋が小学生だった頃の唄、田舎の同級生だった「ウーチャン」が予科練の真っ白い軍服でやってきた話、藤山一郎の「東京ラプソディー」の歌で「ティー・ルーム」というところを「しーずぅむぅ」だと思って歌っていた話、なんていうのが喜々として入っている。そんな時のお袋は全くおかしいところなんてなくて、声にも艶があって、歌わせると、わが親ながら上手い具合に歌っていたものだった。この辺の唄好きなところは下の姉と私に大いに影響しているのは間違いがない。
調子が悪い時のお袋は介護ベッドに横になって、下の姉が録画している「水戸黄門」か「暴れん坊将軍」を見ていたか、あるいは「氷川きよし」の歌を聴いていた。
どんどん認知症が進んでいくのがわかって、人の顔を見ると飯を食いたいと言い出すようになり、自分の中に二人のお婆さんがいて、それぞれの会話を口にした。「おなかが減って来ちゃいましたよ」「もうそろそろご飯の支度をするんじゃないですかねぇ」「なかなか出てきませんねぇ」「もう少し待ってみましょうよ」と延々と続く。私もそんなに云うならもうすぐにでも食事を出しちゃおうかなぁと思ったこともあるけれど、少しでも規則正しい食事時間にしておこうと思っていたのだけれど、それで正しかったのかどうか、自信がない。
ある日、驚くようにはっきりした意識の時間があって、下の姉が話していると、「私はこれまでお世話になった人たちに挨拶を残しておきたいわ」といってそのカセットレコーダーに挨拶を吹き込んだ。私はその事実を知らなかったのだけれど、お袋が亡くなってバタバタと葬儀屋、寺と相談をして通夜の日に、下の姉がこんなものがあるから流したいというので、告別式の最後の挨拶に、このテープを流した。ほんの少しの人が参列してくださった告別式で、それを流した。とてもはっきりした穏やかな声で語っていて、私は驚いた。
このタイミングを逃がさなかった下の姉の手柄だと今でも思っている。