ほぼ足りてまだ欲 その先

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滅多に逢わないけれど

 こんな状況になったからいうのか、といわれるのを承知で書く。「岡ちゃん」こと「岡田武史」とは面識がある。あるけれど、彼がどんな家に住んでいて、彼の家族がどうで、なんてことは一切知らない。それは会ったのがそれぞれがたまに足を向けるbarでのことで、そこで偶然出会うことがあるだけだから。多分最初に口をきいたのは1994年じゃないだろうか。JEF Unitedのコーチから代表チームに移る直前くらいで、移った時に「すごいねぇ」といったら、「ちゃんと所属しているというのと、いつ首になるのか分からない立場というのは全然違うんですよ」と解説された。当時私は曲がりなりにも企業にまだ雇われていて、明日の飯にはおおよそ見当がついていたから、なるほど、そりゃ不安定そのものだなぁと思った。その頃は私も良くその店に足を運んでいたし、彼も結構きていたから出会う機会も多かった。
 私は1995年には転勤で東京を離れてしまったから、彼が加茂の後を受けて代表の監督になっちゃったことは新聞記事で知った。
 1998年の2月に代表チームが本大会前の合宿をAdelaideで行い、その帰途、Sydneyで親善マッチを行うことになった。その日は高校受験のために東京に帰っていた連れ合いと娘が戻ってきていて、一応の進学先が決まったと、日本人学校に報告に行った。そこで今日日本代表チームがBlacktownのサッカー場でSydney Unitedと試合をやることになったんだと聴いてきた。ということは岡田君もSydneyに来ているということかと仕事そっちのけでBlacktownに駆けつけた。当時の豪州のサッカーリーグは今のA-リーグの前身で、Sydneyには3つくらいのチームがあったように記憶している。North Sydneyのチームのトレーナーにたまたま五十肩を診療して貰ったので、その関係からそのチームの試合を見に行ったことがあるけれど、テレビでは放送していなかったし、なんといっても豪州ではRugbyのUnion, League, AFLに加えてクリケットが大人気だし、野球やサッカーは今いちだった。
 Blacktownのサッカー場だってピッチの外はすぐにフェンスで、小さな屋根のついたスタンドはあるけれど、それ以外は芝生なんだか、雑草なんだか分からない草の生えたがたがたの斜面があるだけだ。それでも口コミで知ったのか、多くの日本人がフェンスの周りに詰めかけた。こんなに日本人がいたのかと感慨深いものがあった。ボールを拾ったり、スロー・インの選手に渡す役割を日本人学校の男子生徒たちが嬉しそうにやっていたのを想い出す。
 試合開始に先立って選手が入ってきて、ウォームアップが始まると監督もピッチにやってきて、その辺の草野球場のそれにそっくりなベンチに腰を下ろしたのを見計らって、後ろからいって声を掛けた。「そうか、ここにいたんでしたね!」といっていたけれど、試合前のそんな時に声を掛けて申し訳なかったかもしれないが、なんだかとても懐かしかった。その試合は忘れられないのだけれど、途中から岡野が出てきて、ポニーテイルをなびかせながら、たぁ〜っと走りまくった。「はえぇなぁ〜」と思わず口に出た。彼が1点を入れて、1-0でSydney Unitedに勝ったけれど、このチーム相手にこんな試合で大丈夫なんだろうかと思った。
 本戦はテレビで見た。どこのアナウンサーの中継だったのか知らないが、中田のことを「Ginger Head NAKATA!」と呼んでいたのを覚えている。しかし、その年の暮れに日本に帰国して、彼が本大会で一勝もできなかったことであしざまにいわれているのを知ってとてもショックだった。
 こんなに多くの日本人が彼を叩き、ぼろくそにいっていたのに、なんでまた彼はオシムの後を引き受けたのか、とても不思議だった。しかし、彼はやっぱり好奇心旺盛なんだなぁとそのポジティブさに頭が下がる。今度は彼が帰ってきても悪くいう奴はいないだろう。良かった、良かった。
 それにしても彼がいわゆる「イケメン」でなくって良かったよなぁ。その辺に普通にいるサラリーマンのおっさんみたいで。