ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

50周年

 東京オリンピックから50年経ったということと、2020年のオリンピックを意識してNHKがここのところやたらとあの時の映像を流している。あの東京オリンピックの映像で、その後も何度も何度も目にしたものといったら、一に円谷幸吉、次は東洋の魔女だっただろう。しかし、今日見たのはサッカーの日本対アルゼンチンだった。実は当時、体育の川邊先生から「サッカーの切符だったらあるぞ!」と声をかけられていたのに、私は全く興味がなかった。杉山、八重樫、釜本の名前は知ってはいたけれど、はなっから興味がなかった。
 あのオリンピックで日本がアルゼンチンに勝ったのだということすら、随分後になって知った。大体サッカーは東京12チャンネルの「ダイヤモンド・サッカー」の30分番組でしか見たことがない。体育の授業ではドリブルの練習なんてものはやったけれど、狭い、狭い校庭だったから、校舎に向かって球を蹴るのは御法度だった。かなりうるさくいわれていたから、多分体育の先生が周囲の反対を押し切ってでもやったのかもしれない。
 今日のNHKでそのアルゼンチン戦に日本はなんと3-2で勝ったことを知っただけではなくて、その2点目は川淵三郎(27歳だったかなぁ)がヘディングであわせて取ったものだと知った。昔の映像だから、もうボヤボヤで、よく見えないのだけれど、アナウンサーが「川渕さぶろぉ〜!」といったので、そういわれてみれば四角い顔をしていて、それらしい。それにしてもオリンピックの大舞台で、アルゼンチンに勝ったんだから、とんでもない話だ。上から下まで白一色のユニフォームの日本チームがとっても大きく見えていた。
 それにしては20数年前、まだJリーグの話が公になる前に偶然お目にかかった川淵三郎は全く気楽なおっちゃんだった。今みたいに周りがヨイショ、ヨイショをしてしまった結果の存在ではなくて、ごく自然な普通の年上のおじさんだった。
 1990年のイタリアのワールドカップに私の職場の同僚がどうしても見に行くんだと、わぁわぁいっていたので初めてそんなに凄い大会なのかと知った程度だった。彼は学生時代にサッカーの選手で、それで社会人に入ったものの一年目で膝を痛めてその道を諦めたのだった。
 そのイタリアの大会のNHKの中継解説者として、川淵三郎が行ったのは知っていた。しかし私は中継も見ていない。帰ってきてからの川淵三郎とまた偶然出会って、しばらく話をさせて貰った記憶がある。しかし、1993年にJリーグが始まってから、全く出会うこともなくなってしまった。
 岡田武史も同じように偶然出会った。早稲田大-古河電工だった彼はジェフのコーチから全日本のコーチに1995年に招聘された。その時に「契約ですからねぇ、それが不安定ですよねぇ」といっていたのを覚えている。そこからはもう私はあれよあれよとどんどん遠くに行ってしまう彼をマスコミで見ていた。
 W杯フランス大会の直前だったか、代表チームがアデレイドで合宿をした。帰国直前に当時私が駐在していたSydneyに来て当時のSydney Unitedと親善試合をした。Blacktownの観客席なんてろくにないスタジアムだった。その日の朝、日本から戻ってきたつれあいが娘の進学先の報告に学校に行ったら、その日にそんな試合があるという情報を持って帰ってきて、職場に電話をしてきた。夕方仕事をそそくさと終わらせて、確か電車で行った。box officeが煉瓦造りの小屋で、行くと、今日は無料だという話だったような気がする。急遽決まった試合のようで、電話で連絡し合った(何せインターネットは使われ出したばかり。携帯電話なんて、よほど仕事で外を動く奴以外は持っていなかった)在留の日本人がぞろぞろと「ほんとに全日本がやるの?」という半信半疑な面持ちで集まってきていた。ほとんどはワーホリの若者ばかり。サイドラインの横はすぐ低い金網で、そのすぐ外にみんな立ってみていた。ほとんど草サッカー場のようだ。ベンチもトタンの屋根の下にいわゆるベンチがあるだけ。いよいよ試合が始まろうかという時に、岡田武史がとぼとぼと歩いてきてベンチに座る。その後ろは金網で、後半が始まる直前にそこまで行って、後ろから「岡田さん!」と声をかけると彼は驚いて「あぁ、ここにいたんでしたっけね!」といったのを覚えている。彼はきっとそんなことは忘れているに違いない。
 試合には三浦カズも出ていたが、結局アニマル岡野がどぉ〜っと突っ走って1点を取って代表チームが勝った。
 そのあとのW杯でゴンの1点しか取れないで、彼が帰国後マスコミに叩かれた状況を私は全く知らなかった。
 代表監督を退いたあと、彼がテレビでサッカー発祥の地を訪れる番組を帰国後に見て、あぁ、そうだ、私も欧州ってほとんど行ったことがないなぁ、と行く気になった。
 そんな著名になった皆さんとたまさか出会うことができたのは、古河出身の人がやっていたお店だった。あそこで呑んでいると、その手の人たちが良くやってきたから、様々な人と言葉を交わすチャンスがあった。
 その店も先月末で閉店した。もうお客が歳をとって、なかなかやってこなくなった。みんなのその後を聴いてみると様々で、何人も企業の経営者やら、事業の成功者がいる。みんな若い時は力をもてあまし、口角泡を飛ばして夜遅くまでわぁわぁやっていた。それが楽しかった。全く業界の異なる連中と自分が経験しえない世界がぐっと近づいてきたような気がして(多分に誤解や思い込みもあるだろうけれど)ひと時代を楽しむことができた。39年もやっていけばこういう局面がやってくる。最後の週のお客たちは、相当にみんな人生に草臥れた雰囲気だった。
 Jazz Countryは泰明小学校の前の路地のとある古いビルの地下にあった。