ほぼ足りてまだ欲 その先

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失敗

 アジア太平洋戦争を中心にした昭和史についての考察を読み聴きしていると気がつくのは、多くの決定的な決断が、それをなす責任者の非論理的、かつ情緒的雰囲気によって押し流されるようにして、なされてきていたことだ。
 具体的にいうと、権力上位にいる人間の個人の思惑、ないし価値観で多くの人たちを巻き添えにするということが全く顧みられていなかったということである。
 人間は自分がそのグループの一員となっていないことに大いなる不安感をいだくし、疎外感を感じるわけで、権力を掌握した人間が、倫理的に逸脱していても、その所属するグループの価値観の中に存在していることが確認できさえすれば、理不尽なことでも平気なのだ。
 竹槍と、防空ずきんとバケツと、火ハタキと梯子、そして防火用水で空襲は防げると思っていたし、天皇陛下のために命を捧げることが臣民としての喜びだし、一億火の玉だった。
 その論理と全く同じことが福島第一原発事件でも起きてはいないだろうか。自主避難する人たちに「見捨てて自分だけが助かろうとする」という自主避難しない地元民の間に拡がる声を醸成しているのは誰なのか。学校で提供される飲み物が放射能汚染されているかも知れないと家から飲み物を持たせた親に対して「そんなものは認めない」とあたかもそれが「平等」というものなのだという価値観を教師に持たせたのは一体誰なのか。
 これくらいの放射能による汚染は大したことがないと一気に規制するべき値をどぉ〜んと引き上げてしまう政府・霞ヶ関のスタンスは、どこかで「敵空母三隻を撃沈、当方の損害は軽微なり」としてきた時の権力者のスタンスとどこが違うのだろうか。
 「平和ボケ」で「日本本来の文化」を失った今の日本を嘆く、昔は不良小説で稼いだ某都知事がそうした、非論理的で情緒的な論理で飛ばす檄に今の青年達がなぜか呼応することに大いなる違和感を持っていたのだけれど、それはかつての日本の権力が欲しいままにしてきた状況を許してきた大人のスタンスがそのまま戦後も続いてきているからではないのか。「それは大いに間違っているんだけれど、泣く子と地頭には勝てないし、そんなところで口角泡を飛ばしてバカな精神論を振りかざすあいつらのレベルに降りていくのは沽券に関わる」といっていたら、私達はこのままこどもたちを放射能汚染に晒すことになり、後の日本国民を滅ぼす第一歩を踏み出していることになる。
 どんなに菅直人がどうしょうもないことを続けてきて、約束したことをすべて反故にし、私達をペテンにかけてきたといっても、廃棄物をエンドレスに生み続け、汚染まみれにする原発を間違ったシステムだということは正しい。この部分についてだけは彼の指摘はあっている。
 私達の国がアジア太平洋戦争のあと、65年の長きにわたり、戦争を仕掛けることなく、戦争を仕掛けられることなくやってきたことは大いに評価されるべきであって、これはひとえに国民の監視のおかげであることは間違いがない。あの某東京都知事に至ってはわが国が核兵器を持つべきで、そのために原発は推進するんだと公言して憚らない。これだけの国民が路頭に迷っているにもかかわらずまだ彼はわかっていない。
 私達は今度こそ、半世紀も後になってからようやく、あの頃この人はこう書いていたのにね、というのではなくて、今原発に反対を表明して行かなくてはならない。
 広瀬隆武田邦彦小出裕章の全部の発言がすべて隅から隅まで正しいのかといったらそうではないかも知れない。だけれども、少なくとも彼等が提示してくれている情報や情報の捉え方には、すべてを隠蔽して電力会社、電事連霞ヶ関自民党公明党民主党のやりたい放題から国民を目覚めさせる力がある。
 少なくとも私はもう既に逡巡してはいない。