ほぼ足りてまだ欲 その先

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根回し

 昨日小宮山洋子が「煙草の値段なんて700円ぐらいで良いんだ」と発言した。しかし、今日になって「あれは私見だ」といい、財務大臣になった安住が「煙草の税がらみ価格を決めるのは私だ」的な主張をした。
 ほうら、また民主党内の意見が一致しないだの、内閣の中がばらばらだの、思いつきを口にするだのとうるせぇっちゃありゃしない。そこから引っ張って民主党の大臣は全員、専門分野に詳しい人間がなっていない、素人集団だ、自分で俺は素人だと居直っている奴までいるじゃないかなどとうるせぇちゃありゃしない。
 中にはカウンターパートのアメリカの各大臣を見て見ろ、専門的な連中ばかりだぞ、軍事担当には軍人あがりまでいるのに、それを素人だと自分でいっている奴が対抗できるわけがないといっている野党の軍事オタク議員までいる。
 そんなのはこの国のシステムなんだからしょうがない。それじゃなにか?そうした専門知識を持っている、そういうバックグラウンドを持っている人たちでないと国会議員に立候補してはならないのか?そうじゃないだろう。むしろ軍人あがりが外交で防衛に関する地位にいたのではシヴィリアンコントロールが効かないではないか。ま、米国の場合はどんな状況でも行くといったら平気で世界の常識をひっくり返して他国に侵犯していってしまうんだから、誰がそのポジションにいても同じなんだろう。そんな国が他国から恨みを買わないわけがないわけで、なぜNYCのWTCが狙われたのかがわからないといっているのは米国人だけじゃないだろうか。
 本来的には日本の政治のあり方は、常にその時点で最も自国にふさわしい政策はどうあるべきなのかについての決断さえつけることができればよいのであって、そこまでの材料の取りそろえは霞ヶ関が地道に揃えてこなくてはならないというやり方なのだ。そうでないのであれば、政権が変わるごとに霞ヶ関もがらっと入れ替えなくてはならないのである。しかし、そういうシステムではないのだから、彼等が期待されている仕事のやり方は、むしろ政権が決めた方向性に対して非常にフレキシブルに変更していく考え方が出来なくてはならない。
 つまり彼等に要求されるビューロクラシーというものは常にフレキシブルでなくてはならないのだ。然るに今の霞ヶ関のあり方はどうだ。自分達が中心であると思っている。だから、前原のように勢いよく八ッ場ダムの工事を止めると云ったにもかかわらず、霞ヶ関が「そんな具合に事が運ぶと思ったら大間違いだ」的に彼の口にガムテープをべたべた貼り付けて「いい加減にしろ」と脅かしたようなものだ。あの時国交省は慌てふためき、各都県知事に、「方針が変わった、やめる」と説得しなくてはならない。それが「国としての方針が一貫していない」と非難するのはこの国のシステムがわかっていない浅薄な輩の主張に過ぎない。政権が変わったのは担当政党が勝手に前の与党をぶん殴ってなったのではないのだ。選挙で国民がこれまで八ッ場ダムを無理矢理建設してきた自民・公明連立にはもうやらせない、八ッ場の建設をやめるといっている民主党にやらせるんだと決めたのだ。
 各県の県知事、そして石原慎太郎という元はといえばろくな小説を書かなかった作家(私の私見であります)がやっている都知事が文句をいう筋合いはないのだ。
 だから、小宮山洋子(あんまり気に入っている議員じゃないけれど)は根回しなんて要らないの。いいたい人がどんどんいえばいいの。越権行為だなんてのは霞ヶ関の倫理なんだから、いいたいことはいえば良いの。大臣である前に一議員なんだし、 そのまえに一市民なんだから。安住と小宮山が協議をして、霞ヶ関がどうにかすればいいの。