自公連立のアベシンゾー内閣になってから、また「従軍慰安婦」に関する論議が揶揄されている。慰安婦問題に関しては1993年8月4日に、宮沢改造内閣の時に河野洋平内閣官房長官が発表した談話が知られている。しかし、米国の議会でこれが取り上げられてから「従軍」した慰安婦というのは存在しない、そもそも軍に慰安婦が所属なんてしていないんだから「従軍」という言葉の使い方は間違っているという否定のされ方をしてきているし、河野談話を撤回するべきだという意見まである。
慰安婦というのが存在していたことは事実だ。それは普通の言葉でいえば「売春婦」のことだし、人類最古の職業といわれたりする。昭和32年まで日本でも公的に認められた職業でもあった。今の日本では禁止されている(ことになっている)。今の日本では「風俗」という本来の意味とは異なる意味で使われる言葉で表されている。禁止はされているけれど実はある、という商売である。ごく普通にその存在は認識されているし、人々の間でも別段特別なことではない単語として使われている。
諸外国では公的に認められている商売でもある。しかし、日本では法律で禁止されているのに実は存在していて、それが普通のことになっているという屈折した存在でもある。そこは憲法9条に似ている。法律で禁止されているのに軍隊がある。
戦時中に中国大陸やアジア太平洋各地に展開した旧日本軍が駐屯した各地で将兵がそうした商売の客となったことは確かだ。私はこの目では見ていないけれど、戦後に作られた様々な映画の中にも描かれているし、そうした証言を残している人たちもいる。
問題はそうした商売を軍や官憲が後押しをしたかしなかったかというポイントになっている。しかし、本当の問題点はその前にそうした存在、つまり男はそういうことがないとやっていけないんだという概念が普遍化していることにもある。この問題を語る人はこの商売があることについて論議する訳じゃない。軍や官憲が関与したかしなかったかに絞られている。
関与を否定する人たちでも、いくら何でも敗戦直後の特殊慰安施設協会の存在に国が関与していたことを否定する人はいないだろう。あれも今では批判する人は少ない。当時いわれたようにあの機関の存在で日本の女性は救われたと本気になって思っている。あの施設が翌年になって廃止されたのは米軍将兵の間で性病が蔓延したことを米国の新聞が報じて、米国の女性から批判が噴出したからであるけれど、米軍が占領した各地で女性にどれほど乱暴したのかについて米国内で問題になったのかどうか、私は浅学にしてこれを知らない。
この商売に関係している女性の一体誰が喜んでこんな商売に手を染めるというのか。「苦界」という言葉があったくらいで、できることならこんな事を商売になんてしたくなかったに決まっている。いやいやながら他に考えられる術がなくなって足を踏み入れる。そこから先はお定まりの展開になってしまう。男がその世界を是とし、あることをないことにしてまで自分の乱暴狼藉を金で果たしている。そのうしろにどんな存在が隠れていようと男が自分の我を通すために金で始末をつけるという仕組みになっている。
買春という行為そのものが人間の男に課せられた生物学的な欠陥の結果だとするのであればそれをコントロールするのが「人間」の生物学的な優位点たる叡智ではないのか。
こういう事を書くとすぐさま「お高くとまりゃぁがって」という反応が思い浮かぶが高くも低くもない。