ほぼ足りてまだ欲 その先

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混迷の様相

 大阪市立桜宮高校の事件に関してはその後の対応、関与、感想、反響がどんどん出されていて混迷の様相を呈してきた。
 在校生の子どもたちが制服を着て会見をしたというテレビのニュースには驚かされた。ここまでの桜宮高校の伝統を大事にしたいという発言を堂々と流すのには驚愕だ。それって体罰に苦しんで自殺したバスケットボール部のキャプテンを責めている?そんな程度のことで自殺なんかするなといっているように聞こえてしまうではないか。彼らがいいたいのは一体何だろう。この大騒ぎの事態そのものをもういい加減にしてくれということなのか。
 この事態のそもそもの問題点というのはどこにあるのだろうか。ぶん殴ることによってスポーツは強くなるのか、という点だろう。殴られるとどういうことが精神的に起きるのかというのがそういうことを学校でやられたことがないので想像するしかない。
 うちの親父が私を平手で殴ったのが何回かある。いわゆるビンタ、という奴だ。ほっぺたにおやじの指の跡が腫れて残った。触ったらでこぼこしたのでわかった。とっても悲しかった。一体何をしたのか全然覚えていない。多分おやじが思うような態度を示さなかったということだろう。昔から良く「一言いうとすぐにふくれる」といわれていたからかなり反抗的だったのだろう。
 しかし、怖くなってその先を踏み込むことはできなかった。つまり怖さが先に立って表面的にいうことを聴くようになった、ということだ。学校でも怖さが先に立って失敗をしなくなるということだろうか。
 巧い選手は一度した失敗を繰り返さないという話を聞くことがある。何が行けないのか、何を考えなくてはならないかと言うことが自分でわかるということだろうか。
 しかし、そこまで天才的でない連中はそれを無理矢理、納得できなくても反射的にそうできるように鍛えるには「一発」が必要なのだろうか。
 しかし、あのキャプテンの話は、他の選手の分も彼が背負って顧問の先生にやられていたという話ではなかったか。その合理性というのはどこにあるのだろうか。キャプテンのためにも失敗はできない、彼を救うためにも気を遣ってプレイして、勝たなきゃならんという思考回路を作るということなのか。それが指導者の指導者たる所以なのか。
 私はその前に高校時期からスポーツ専門の学科が、それも公立高校で存在することの意味が良くわからない。私立高校ならやりたいようにやればいいとは思うけれど、それでも早いような気がする。高校生までは普通に基礎的な学習をするべきではないのだろうか。
 学校スポーツの裏には「教育」という側面以上に本来であればクラブチーム、アフター・スクールの機関で行われるべきスポーツの要素が必要以上に詰め込まれてしまっているような気がする。実際に超高校級といわれる選手を抱えるチームは高校という高等教育機関というよりはクラブチームと同じような部活本意な活動になってしまっている。
 この際、高校教育と学校スポーツを切り離すという大手術を議論するべきではないのか。すべてのスポーツをクラブスポーツにする。新潟がひとつの試金石ではないのか。
 駅伝だってクラブチームに所属してやればいい。学校なんて関係なくして。インター・ハイもインター・カレッジもなく、すべて全国クラブ・スポーツ選手権/アンダー18の部/アンダー15の部として。