ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

部活

 そうそう、人生総括の一環として、私がこれまでの人生の中でどんなクラブ活動を送ってきたかについて記録しておこうという、実にくだらなくて、他の人には何の参考にもならないのだけれど、自分の中では思い返すという重要な行為だからこの際実行してみる。

小学校

 前にも書いたように私は小4の2学期、小5が終わってから、の2回転校をしていて、都合3つの小学校に通った。小学校にクラブ活動なんてものは全くないのだけれど、勉強以外の活動らしきものはいくつかやっている。

 二つ目の清水市立三保小(今は「静岡市立清水三保第一小」という複雑怪奇な名前になっている)は広大な校庭を持っていた小学校で(その代わりプールはなかった)、小学生のソフトボールだったら一度に4面ぐらいはできてしまおうかというくらい。男子の遊びは格段にソフトボールで、各クラスにチームがあって、しょっちゅう土曜日の午後に対抗戦をやっていた。もちろん私も加わりたくてセレクションに手を挙げたのだけれど、担任の鈴木先生が私に下したのは「監督」という奴で、要するに何かやらせておかないとうるさくて構わんから、そんなことにしたらしい。クラスメイトの青井君と斎藤君はいつでもスタメンだった。
 この学校は体育大好きだったから、毎月一回土曜日にクラス対抗のリレー大会が行われた。一番早い子を選抜したリレーだったら、多分毎回勝つクラスが固定してしまうだろうと思われるけれど、先生方も随分考えたらしくて、どんな選抜方法をしても良いけれど、一度出場した子は二度と出場ができないというルールを考え出した。うちのクラスは鈴木先生が体育の時間に全員の50mのタイムを計りだして、ランクを決めた。そして早い順から第一チーム、第二チームと配置していく。こうしておくと第一チームは断トツだけれど、どんどん実力ががた落ち、という事態を避けることができる。クラスで6番目に早い子は1番早い子と同じチームになる。
 で、私は第3チームだったような記憶だ。しかし、残念ながら他のクラスに勝った記憶はないが、惨敗した記憶もない。クラスで最も早かったのは女子で、門田さんといった。彼女は見るからに速そうなスラッとした長身で、長い髪の毛をいつも三つ編みにしていた。私はいつも彼女を見上げていた記憶がある。
 三つ目の小学校、清水市立岡小学校(現在の静岡市立清水岡小)は6年生の一年間だけだったけれど、選抜されて合唱団に選ばれた記憶がある。たくさん練習した記憶はないからそれほど力を入れていたわけではないのだろう。なにしろ私は小学生の時から歌わせると声がでかくて、何でみんながあんなにか細く歌えるのか理解ができないという嫌みなガキだった。ところが静岡放送の子ども歌コンクールみたいなのに出ていって(自分で出るといったのか、先生に出なさいといわれたのか、もう記憶にない)「凍れる月影 空に冴えて  真冬の荒波 寄する小島 想えよ灯台 守る人の 尊き優しき 愛の心」という歌詞の「灯台守」という歌を独唱した。
 この歌はボーイ・ソプラノの子が透き通った声で、キィ〜ンと歌わなくちゃ冬の寒い月空のイメージが湧かない。はなはだ残念なことに小心者の私はすっかり上がってしまい、(多分知らない人の前で一人で歌ったのはあれが人生の上で初めてだった)声がうわずってしまってガタガタになってしまった。司会のお姉さんが「風邪引いちゃったのかな?」と同情の声を掛けてくれたのだけは覚えているという実に忌むべき思い出である。
 小6の夏休みには清水市民大会水泳大会なるものに学校の代表メンバーに選抜されて出ている。この小学校にはこの頃プールがない。じゃ、どうやって選手を選抜したのかというと、近所にある、今ではサッカーで有名な清水商業高校というのがあって、そこには当時珍しい50mプールがあった。ここで水泳の授業をやるのだ。私は小4のまだ横浜にいた時に夏休みの臨海学校として、当時海水浴場に面していた間門小に毎日通ったというのに、たかだか10m泳げるようになっただけだった。ところが翌年の夏休みには、三保半島の先端にある真崎海水浴場にほぼ毎日おにぎり2個を持っていき、一日中泳いでいたものだからあっという間に水泳に上達していた。しかも、岡小にはプールもないものだから、児童全体の水泳レベルは高くない
。というわけで小学生平泳ぎの部の第二選抜選手に潜り込んだ。同時に小学生メドレーリレーで岡小Bの平泳ぎ泳者と登録された。
 結果は平泳ぎは全体の8位。つまり決勝でビリだった。上がってくると小学低学年のガキが私に向かって「へ、ビリ!」といったのが未だに忘れられないのだ。日頃そんなところに顔を出さない親父がプールサイドに顔を見せたのは決勝が終わった直後だった。
 メドレーも全体の5-6位だったはずで、結局得点争いに何の貢献もしなかった。それなのに、わが岡小は団体優勝をしてしまう。つまり優勝チームの味噌っかすだった。何でプールも持たない学校が優勝したのかといえば、断トツの三保小が参加してこなかったからに他ならない。つまらなそうな顔して写っている写真がある。

中学

 ひとクラスわずか25名、5クラスの私立に入って始めたのは軟式テニスだった。なぜだったのか理由がわからない。水泳をやりたかったけれど、プールがなかった。当時プールはそんなに普及していない。そのテニス部だってコートが一面あるだけだった。横はバスケットボール部のコートだった。この学校には体育館がなかった。バスケット部のコートの向こうは野球部のグランドだった。サッカー部はなかったような気がする。この学校にはたった一年間しか在籍しなかったのに、思い出は盛りだくさんにある。学校から私鉄で二駅の永井君の家に遊びに行って中学一年の二人は田んぼの畦で鮒を追いかけていた。
 その軟庭の一年にも試合のチャンスが巡ってくる。市の軟庭中学校新人大会がある。試合の一週間前に、卒業生の大学生(だったのだろうか)がコーチに来て、スウィングのチェックをしてくれる。どうせだったらもっと早く来てくれればいいのに、と思った。顧問の先生は一回戦に勝ったらカツ丼を奢ってくれるといっていた。実は私はこの時までカツ丼というものがどんなものかわかっていなかった。大会会場は城跡の公園にあるテニスコートだった。私はカットサーブを会得していて、姑息にもこれでどうにかなるんじゃないかと思っていた。ところが現地にいって対戦相手をみて驚いた。常勝チームの高松中学校だったのだ。勝てるわけがない。案の定、カットサーブなんて彼らにとっては当然のものだったのだろう。それを知っていて顧問はカツ丼を奢るなんぞと大言壮語をしたに相違ない。
 一年生を終えるのを待って東京に転校した。長姉が大学浪人をするというので親父を単身赴任のままオフクロと三人の子どもが帰ったわけだ。大田区立大森第三中に2年生の新学期から転校。N組だったけれど、この学年にはP組まであった。同じクラスに九州の名門私立女子中から転校してきた子がいた。山口さんといったけれど、彼女がコンタクトレンズなるものをしていたことを知って驚いた。このマンモス校(当時はこうしたいい方が流行った)にはバスケットボールが二面取れる大きな体育館があって、25mプールがあった。直ぐに水泳部に入った。ようやく水を得た、と思ったら直ぐに右手を大怪我をしてしまって、水泳部の練習に出られなくなった。春だからまだ泳いでいなくて、陸上練習だけだ。行かれなくなってしまうと治ってからも行きにくい。そのままやめてしまった。つまり泳いでいない。その時クラスメイトで、尚かつ水泳部員だった田原君はまるで泳ぐために生まれてきたみたいで、学校の記録どころか区の記録も塗り替えるような選手だった。
 その代わりに入ったのは卓球部だった。ペンフォールドのラケットを遣っていたのは記憶にあるけれど、なんでここで唐突にピンポンだったのか、全く記憶にない。多分卓球部にクラスメイトがいたのではないだろうか。それもあっという間にやめたらしい。
 3年生になってからというもの、英語の塾に通い始めたものだから週のうち日曜日は午前と午後、平日は三日間大森から東横線菊名に行き、夕方に帰ってくるという日々が始まったから部活どころじゃなかった。その代わり、二年生後半から関わってきた「新聞委員会」を細々と続けていた。ひとりで築地近辺の印刷やさんに原稿を届けたり、校正を届けたりしたのもこの頃のことだろう。

高校

 三年間を通して菊名の英語塾には通い続けたけれど、一年生の時にはESSと放送部の両方に所属していた。すっかり文系になってしまった。放送部では都内の高校生の放送劇コンテストなるものに出演した記憶がある。さいしょに「あぁ、ヤンなっちゃうなぁ」という私のセリフから始まるのがとてもやりにくかったのを覚えているけれど、台本を見ても良いというのは楽だったなぁ。
 ESSは私以外は全員女子だった。今から考えてみれば美味しい部活だったのに、そんなことに目覚めることもせず、John F. Kennedyの大統領就任演説をそのままそらんじて文化祭でやった記憶がある。当時、暗記力抜群だったのである。もう今やボロボロ。
 2年生は放送部をそのまま、三年間同じクラスだった茂呂君と一緒に続けていたが、ESSからは手を引いている。もったいない。
 3年になって受験勉強に対する反発(一体誰に?)なのか、俄に部活は活発を極め、下級生の連中と落語研究会を設立。顧問の先生は現代国語のいかにも落語がお好きのような先生にお願いした記憶だ。しかも、この期におよんで遂にクラスでエレキバンドを組んでしまった。こんなことをしていて大学に受かるわけもなくあえなく浪々の身となる。浪人中、他のメンバーは新たなバンドを組んであちこちのゴーゴークラブで箱バンとなって面白そうな生活を送りやがって、実に不愉快な浪人生活を送る。この時の悔しさをバネにして大学では音楽サークルに入る。このバネは世界に羽ばたくほどのバネではなかったということだ。
 実は私は社会人になってもサークル活動をした。就職した造船所でブラスバンドを造ったのだ。なにしろ造船所では進水式がある。その進水式でマーチを演奏して景気をつけようという趣旨だ。顧問の設計部長までメンバーとなってフルートを吹いておられ、資材部長もサックスを吹いていた記憶がある。
 こうして見ると、ほうぼうに手を出したものの、なにひとつ極めたものがなくて、実に私らしい人生の送り方であったものだと、実に・・・・情けない。でもこれが逃げようのない私の人生だ。