ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

返さない

 元ICUの図書館長をしていた松村(旧姓高橋)たねさんが、日米交換船で帰国するためにペンシルヴェニア・ホテルを出る時、書物と、自分の書いたものが、検査官に取り上げられて、「これは、あなたが日本に持って帰ると困ることになるから、預かっておく、あとで返します」といわれた。戦争が終わって、しばらくしてから、それらはほんとうに返されてきた。一方、浅間丸に乗ってから書いていた日記は、どこでとられたのか、なくなっている。日本は、戦争が終わっても、それを返さなかった、という話は鶴見俊輔が黒田創に語った「日米交換船」(新潮社 2006 P.459)に出ているんだという話は2007年にこのブログに書いたけれど、同じ事を彼女はICUのウェブページでも詳しくインタビューで答えている。
 彼女は交換船で帰る前まで4年間をWestern Maryland Collegeで学び、その後一年間、Pendle Hillと言うクエーカーの大人のための学校で学んでいたそうだ。そこから、クエーカー教徒であるヴァイニング女史が戦後皇太子の教育係として来日する時に、ヴァイニング女史の秘書として起用されることにつながる。
 ヴァイニング女史は自分が起用されたことの理由も何もご存じないまま来日したそうで、船を下りて松村さんが車に同乗して秘書としての自分を自己紹介し、Pendle Hillの出身であるということを明らかにしたところで、ヴァイニング女史は安心したらしい。
 ヴァイニング女史は元はといえば聖公会の信者で、車の事故でご主人を亡くされ、ご自分も重傷を負い、その傷みのなかでクウェーカーに改宗されたそうだ。
 のちにヴァイニング女史は松村さんのためにDREXEL大学図書館学科にスカラシップをとり、1951年から翌年にかけて松村さんは二度目の留学をされた。その後二年間、フィラデルフィアのBryn Mawr Collegeで働いたところで、ICUから図書館に招聘されたという。
 アメリカという国と日本という国の根本的な差は彼女の話の中に如実に表れていて、犯罪捜査の証拠物件が徹底的に残されている点、戦死者の遺体を徹底的に送り届けるという姿勢をみると、あぁ、これは日本ではとても考えられないどころか、日本ではそんなものはあとはどうでも良いことだとされている価値観の相違は一体どこにあるのかと、かなり不思議だ。
 例えば政府・行政が作った文書、あるいは国内で発行されたありとあらゆる公的書類がすべて公文書として永久に、しかも徹底的に保管されるのに対して、日本では一定期間を過ぎたら、むやみやたらと廃棄、つまり捨てられちゃうというポイントは恐ろしいくらい無責任である。この国が歴史を大事にしないのはすべてにこうした視点に現れている。それでいながら、神話については信じられないくらい妄信的である。
 この辺がどこまでも抽象的な答弁で終わってしまえる国会答弁にも色濃く出ている。
 今回の人質事件でも政府高官の口から出る言葉は「鋭意取組中である」ってだけだ。それならあとで誰も責任をとらなくて済む。

湯浅八郎と二十世紀

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日米交換船

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皇太子の窓

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ウィリアム・ペン―民主主義の先駆者 (1950年) (岩波新書〈第53〉)

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天皇とわたし

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友愛の絆に生きて―ルーファス・ジョーンズの生涯

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