ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

Cottonwood Mall (Utah)

 1979年12月、この年はイランのテヘランにあった米国大使館が乗っ取られ、大騒ぎになった。それがアメリカとイラン、イラクのここまで引っ張ってくるその発端だったとはまったく気がつかなかったくらいの、ノー天気野郎だった私は、会社からユタ州のソルト・レイク・シティーに派遣されて語学研修をした。2ヶ月半、ここで英語漬けの生活をして、最後の2週間をかけて、仕事に関係する米国企業を渡り歩いてきた。この頃の会社は飛ぶ鳥を落としていたのか、毎年5人を送り出していた。私たちは確かその2年目だったと思う。
 行ってみたら派遣先はコットンウッド・モールというショッピング・センターの二階のオフィスフロアーの一角にある小さな教室を持った事務所だった。午前中はそこで、本当に教師の資格があるのかどうかわからないふたり程から英語の主にoral訓練を受けた。最初に銀行に電話してどんな口座があるのか、聞き取れといわれて仕組みを知らないものだから、慌てた記憶がある。思わず日本語が口をついたら箱の中に25セントを放り込む、という罰があって、みるみるうちに貯まっていった。
 暮らしていたのはホームステイだったから、生活はあてがわれた家のレベルのママだから、運、不運がある。私は最初、某医療関係用品メーカーの副社長の家にいたから、恵まれていた。ゲートがあってガードがいるようなコンパウンドに建っている一軒家だった。毎週金曜日は子どもたちを寝かせてから、大人三人でビールを飲みながら肉を焼いた。
 次のうちは靴屋で働く旦那と三人の乳飲み子を抱えている奥さんのほとんど私と年の変わらない夫婦の家庭だった。復習をやろうとしていると、子どもたちがやってくるという家だった。動く車が一台しかないから、毎朝、旦那を店まで送っていった。
 三軒目はそれぞれが子どもふたりを連れて再婚した夫婦の家で、そこには17、15、12歳の息子三人がいて、彼らとのレスリングに往生した。17歳は高校を終えたらMarineに行くんだといっていた。あの歳格好からいったら、彼はもう52歳になっているはずで、アフガン、イラクあたりに行っていたはずだから、無事でいるかどうかわからない。
 毎日午後からは周辺にある様々な企業にインタビューに行ったり、私はユタ大学のウィンター・クラスに入れて貰ったりしていた。良く、あのままアメリカに留学するといわなかったものだと今から考えると、惜しいことをした。尤もあの当時は研究対象が見つかっていたわけじゃない。当時、あの街で日系一世のおじさんに出逢ったりしていたのだから、その後興味を持った米国における日系人社会を研究対象にして留学してしまえば良かったじゃないかといえるけれど、当時は良い調子で会社員をやっていくつもりだった。
 そのコットンウッド・モールは今になって調べてみると、かなり古いショッピング・センターで開設されたのが1962年。インドアのショッピング・センターとしてはユタ州で最初で、全米でも2番目だったといわれている。1番目はどこだったのか知りたくなるなぁ。なにしろSLCは冬オリンピックが開かれたようなところだから、冬は雪が深く、クリスマス前には根雪になってしまう。だから冬は建物の中にしかいられない。
 ショッピング・モールでランチを買ったりしていると、年老いた爺さんが話しかけてきたことがあった。何をいうのかと思ったら、自分は占領期の日本に軍人として言っていたんだという。占領期が終わっても日本にはたくさんの軍人が今でもいるわけで、日本に良い記憶を持っている米国人男性がいてもおかしくない。彼がいうには接収していた小金井のゴルフ場は自分たちは100円でプレイできたんだそうだ。彼はしょっちゅうモールの中を散歩していた。
 ZCMIというデパートがSLCでは大手だった。それが開いたモールだったらしいけれど、ZCMIはMeier & Frankに吸収され、今はMacy'sになってしまった。21世紀になって古くなったモールにはテナントが入らなくなり、とうとう1/4が空きテナントとなって2009年には閉鎖されたそうだ。今、Google mapでみるとMacy'sの倉庫のような建物が見えるだけでまっさらになっている。
 青春が消えていくのが見える。
 当時お世話になったホームステイ・コーディネーションをやってくれていた女性をネットで探すとまだあの街に住んでいるらしいことがうかがえる。どうしているんだろう。