あ、そうか、今日は昭和の日という祝日だったのか。昭和天皇の誕生日だったからなんだけれど、これはもう忘れられてしまうだろうなぁ。ま、とにかく「昭和の日」ってんだね。で、大正の日ってのがないよね。明治の日ってのはかつての明治節、つまり明治天皇の誕生日に相当する11月3日がそれで、文化の日とかいっているけれど、実は明治節を戦後生まれ変わったこの国とこの国民が天皇制を知らぬうちに賛美するがための手段でこういうことになっているわけですね。
かわいそうなのは大正天皇でございますな。もうぼろくそに言われているわけです。なんでも脳みそが足りなかったんだとか、国会の開会宣言をする為に国会に行って、その勅語を書いた紙を丸めて望遠鏡代わりに覗いていただとかって、平気でいわれています。
しかし、彼は大変文学的な天皇だったそうで、歌を詠み、言語的な才能はほぼ天才的だったといわれているという点についてはさほど喧伝されておりませぬ。
大韓帝国最後の皇太子といわれた李 垠(り ぎん)は梨本宮守正王第一女子方子(まさこ)を嫁にしています。学習院女子中等科在学中の1920年に日韓併合のために政略結婚をさせられたわけですが、この李 垠は1910年(明治43年)に日本の皇族に準じる待遇を受け、日本で教育を受けたわけですが、大正天皇はそれに先立つ1907年に朝鮮半島を訪れ、李 垠に逢い、大層気に入って彼の為に朝鮮語をマスターしたというんです。驚いちゃいますね。今の時代じゃないんですよ!あの時代に朝鮮語をあっという間にマスターしたっていうのには舌を巻いちゃいます。
ちなみに、李 垠と方子の夫婦は戦後韓国に帰ること叶わず、1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まってようやく帰国したが、その時には李 垠は脳梗塞を抱え、病院から出ることなく、1970年に他界する。残された方子は韓国人として障害者福祉に貢献。
大正天皇は第三皇子だけれど、昭憲皇太后の子ではなく、典侍、ま、つまり側室、側女ってんですかね、の柳原愛子が母親ですね。私、この人の名前はどこかで聞いたことがあって、かつてはなにやら怪しげな人の名前だったような記憶があったのですが、長ずるに及んで、あぁそうかと判明したというわけで、私たちの戦後の教育にあっては、この辺は語られなかったのかもしれないですね。大正天皇の死の床で柳原愛子は呼ばれ、大正天皇は実母の手を握って死んだといわれているそうです。
側室制度を大正天皇はとりませんでしたね。
大正天皇といったら、1921年、大正10年に健康が優れないと、後の昭和天皇が摂政に任命されるに至りましたよねぇ。これは知らない人はいないと思います。その後病状回復することなく、御用邸を転々としましたけれど、1926年12月25日になくなりました。
御名御璽の御璽ってのが天皇の印鑑を意味しますが、これを専門に管理の任に当たるのが内大臣という職種でございます。これ、どうも内務大臣と混同され易うございます。で、摂政をとるということはこの御璽もそちらへ回るということになるわけですが、大正天皇は、いざというときにかなり固執されたような噂を聞きます。そういえば、昭和天皇もかなり病状悪化したときに、かなりそれを気にしたというような話を聞いたことがありますが、それは自身が大正天皇の摂政に任じられるときに見聞きしていたことがあるからかもしれません。
後の昭和天皇が摂政につかれていた期間、つまり大正10年から昭和元年の間ですが、不思議と軍による事件が起きていませんねぇ。これが不思議です。昭和に元号が変わってから、どんどんいろいろな事件が起き、それが戦争へとなだれこんでいきます。