先週の木曜日に売れ残りの一冊を日本橋の丸善で買った。永六輔が死んでから一年だったので、そういう特集がある。彼は週刊金曜日にも連載を持っていた。
彼を初めて知ったのはもちろんラジオで、ここでも何度も何度も、爺さんの百回話で、書いているけれど、ラジオ関東(現在のラジオニッポン)の「昨日の続き」という番組だから多分自分は高校生だったのではないかという気がする。ウィッキペディアだと1959年7月6日から1971年3月までやっていたというから相当長寿番組だ。永六輔、前田武彦、富田恵子(草笛光子の妹)だった。しかし、ウィキペディアは永六輔は早いうちに喧嘩して降りていて、大橋巨泉があとをやったという。確かに大橋巨泉もでていたし、その後かも知れないけれど、はかま満緒や保富康午が出たというのは知っているが、青島幸男や佐野洋が出ていたというのは知らない。そもそも佐野洋って誰だよ、と思ったらあの推理作家の佐野洋だった。
ずっとTBSの土曜ワイドも聞いていたし、その時に久米宏が外からの中継をやっていたのも覚えている。TBSといえば毎朝遠藤泰子と放送していた「誰かとどこかで」はなんと1967年から放送していたという。私はいったいどこから聞いていたのだろう。あの時間では現役の会社員だったときには聴けるわけもないし、それにしてはずいぶん聴いたような気がしないでもない。遠藤泰子の桃屋のCMが好きだった。
どの番組でだったか全く覚えていないのだけれど、私は嫌いじゃなかったのでハガキを何度か書いたことがある。そして噂通りに永六輔の自筆のハガキをもらったことがある。それは驚いたが、それでなんとなく永六輔により一層の親しみを持った。戦略だったのかも知れないけれど、これは確実に聴取者の心を捉える。自筆の署名が嬉しかったのは、この他には働いていた造船所が出した招待状の返事に書かれていた柳原良平と森繁久弥だった。
もちろん永六輔とテレビといったらいくつもあるけれど、NHKの「夢であいましょう」だろう。当時、テレビは「なんとかショー」というタイトルが溢れていたような気がする。ロイ・ジェームスが司会をやっていた「なんでもやりましょう」なんてその典型だ。冒頭、永六輔が現れてべたべたに訳知りの喋りをするのが嫌だ、という人たちはたくさんいたんじゃないだろうか。
ところで永六輔といったらインディ500で、先日佐藤琢磨が勝ったレースが報じられると、私の頭に条件反射で浮かんだのは民放がさる年のインディ500を生中継したときに、「どんな事故が起きるかと思うと・・」とやって顰蹙を買ったことを思い出したもんだ。
初めて生の永六輔を見たのはいったいどこだったんだろう。渋谷のジャンジャンのライブに行ったことはないから、あの時期ではないだろう。ひょっとすると相当後になってのことではないかという気がする。少なくとも、新宿南口の高島屋ができた頃、あそこのホールで例の話の特集がらみステージを見に行った時には見ている。ずいぶん最近のことで、まだ20年くらいにしかならない。それから先は紀伊國屋ホールで何度も行っているし、かつて永六輔の実家である「最尊寺」で三月に一回開かれていた落語会「永住亭」で冒頭話をするのを見た。その時、小菊さんが出てきたのを覚えている。
なんだかんだといわれた永六輔だけれど、私は彼がフェアネスを最後まで忘れない人だったことを記憶にとどめておきたいと思っている。まだまだ、思い出しそうな人だ。