ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

新宿

 保阪正康のレクチャーを聴きに行った。お爺さんたちもさすがにインフルエンザ恐怖もあるからか、出席率は低そうなんだけれど、それがみんな二人分の席を独り占めして座るものだから、なかなか座りにくい。いつもに比べたら二倍ぐらい離れた席になってしまったので、若干の聞き漏らしが生じてしまうのが残念だ。

 今回の傑作は歌。こんな歌があったのかと驚いた。

爆弾くらいは手で受けよ (上・下)上原敏・田端義夫 他
 SP一枚に収まりきらなくて、上下二枚になっている。上は一番から五番まで。下は六番以降。なんとも不安定な居心地の悪いメロディーラインもさることながら、冗談なのか、なんなのか、良くわからない歌詞で、戦時歌謡というジャンルに属するらしい。「いざぁというときゃ軆あたりぃ、あ、そりゃ、爆弾ぐらいは手で受けよ」って、そのうち冗談じゃなくなっちゃうわけだから笑えない。

 戦時中の学校には藁人形が二体立てられていて、子どもたちが登校してくると、ニミッツマッカーサーと書かれたその藁人形を「えいっ!」と突き刺してから「おはようございまぁ〜す!」とあっけらかんと入っていったそうだ。しかし、それでもそんなことは出来ないと泣いた女の子がいたそうで、本来的にいえば、そのことの方が本来的だろうに、あっけらかんと、それが出来る時代があっという間に来てしまうわけだ。

 ところで日露戦争も、太平洋戦争も、その始まりは奇襲攻撃。

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。(ウィッキペディア)

日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦し[48]、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。(ウィッキペディア)

 奇襲とは何か。奇をてらって密かに攻撃する。相手がその気になっていない時に攻撃する。私たちは奇襲が卑怯だとは思っていないということか。そう聞かされて、あれっ!と思った。確かにこの二つの奇襲、あ、いや正確にいえば、真珠湾もそうだし、ひょっとするとシドニー湾もそうか?奇襲ばかりだ。
 すると、「日本はどんなことでもやってくる」といって面倒くさいなぁとあの戦争の間そう思っていた米軍はどんな反応を持っていたというのだろうか。

 5月に欧州戦線でドイツのナチスがついに破綻しても、日本軍は後から後から白兵戦を挑み続け、あたかも殺されに来たかの如くであり、空からは弾幕をかいくぐって、たいした被害を及ぼすことが出来たわけでもないのに、特攻突撃を繰り返してくる。もういい加減俺たちも解放されたいと思っていただろう。だから、多くの米国人はきっと今でも、原爆がなかったらもっともっと長引いて、米軍側の被害も増え、負担がかかっていたことだろうと確信している。私は当初、なんて認識が足りない、視野の狭い考え方だったのか、そのうち史実がわかれば、理解も変わってくるのではないかと思っていたのだけれど、それとは随分違っているのではないかと思い始めた。

 再来年から高校の社会科の授業で、「公共」「歴史総合」「地理総合」を学んでから地理、日本史、世界史、倫理、政治・経済といった科目を選んで履修するということになるらしくて、今から先生方の間ではその準備が始まっているんだそうだ。
 なんでも日本史の入学試験問題が、どんどん細かくなっていって、専門的になりすぎていて、難しくなる一方なので、受験生が嫌がっているらしい。むしろ世界史の方が細かくやりようがないので、好まれているということらしい。「歴史総合」は従来の歴史授業と異なって、現代から入ってさかのぼる、つまり、歴史の果を知って、因を探っていく授業になるんじゃないのか、という読み。どんなことになるんだろう。近現代史においてもことさら明治維新を取り上げることになって、バランスのとれたといいながら、結構とれていない結果に導こうとする動きが、多分今の自民党政権だったらやりかねない。