多くの場合、多くの環境で、「蟻とキリギリス」の寓話は世の中の評価として正しい判断だということになっているのではないかという気がする。子どもの頃この話を、「北風と太陽」と同じように聴かされていた時は、厳しい世の中をきちんと見据えておかないと、キリギリスになっちゃうんだぞ。だから、派手な生活を求めることなく、地道にコツコツと暮らしなさいよ、と教えられた。太く短くではなくて細く長くとも。だから年越しには蕎麦を食うと。じゃ、ずっと地道にコツコツと暮らしてきたのに、結局野垂れ死ぬしかない人生だったとしたら、それはアリなのか、それともキリギリスなのか。
キリギリスをやり続けて、一億円なんてはした金、といいながら最後に殺されちゃう場合はどっちなのか。地道にコツコツと爪に火をともした暮らしをしてきて、不器用に巧いこと世の中を渡る術を手に入れることが出来なかった挙げ句に、殴られて一発で死んでしまう場合はどっちなのか。
どんな理由があろうと、どんな失敗があろうと、どんなイヤな奴であろうと、どれほど迷惑をかけられようと、最後に力尽きて、倒れてしまっている時は、助けられる手立てを差し伸べられても良いじゃないか。「見ろ、あいつもとうとうあんなことになっちまったぞ。だから、地道に暮らさなくちゃいけねぇんだ」と思っても、彼が誰かの手を探していたら、差し伸べても良いじゃないか。
でも、どうやって手を出すのが良いんだろう。
若い人が、もうクタクタになったデイパックと、トートバッグを抱え、汚れまみれたズックを履いて歩いているところに遭遇すると、もうなにをどうしてあげたら良いのか、見当がつかない。