落語に出てくる「鰍沢」は随分怖い話である。
雪の中で難儀をした旅人が一夜の宿を願ってあげて貰ったところから、話は急展開。
吉原で一世を風靡した花魁が、心中に失敗して品川へ。そこから逃げて、この地に隠れているという筋書きが、後から考えたら、「そんなのありかよ」という設定だ。
これを先に聞いた人は、鰍沢と聞いたらなんだか怖ろしいところのような気がするというものだ。
実はつれあいの両親はこの鰍沢の出身だ。
笛吹川の流れが釜無川と合流して富士川になるあたりに鰍沢はある。だから、平地なんぞは実にほんのわずかで、街道の脇はすぐさま山になっている。実家の菩提寺のウラの墓地はその山にへばりつくように上に拡がっていて、義母を葬った法事の時に下から何だか中途半端な階段をヨイショヨイショと上っていき、いつの時代のものかわからないような、小さな自然石を建てたような墓石が並ぶ一角に到達した時は、こりゃ容易なこっちゃないなと思った。
実は義母の生まれ育った実家は、富士川を挟んで反対側の山の上にあった。昔は八之尻という名前の村だった。「はちのしり」というのかと思っていたら、地元の人たちはみんな「はちんしり」と呼ぶ。塩の道でつながっている静岡と山梨に共通な方言的な発音で、「の」を「ん」でつなげる。「おらの家」が「おらんち」もしくは「おらんちっち」と清水ではいう。八之尻の実家は山の上にあって家の裏の畑には大きな墓が建っていた。自家用の墓だ。かつてはそのまま土葬にしていた。鰍沢の墓に登ると、富士山の方向に丁度八之尻の実家が見えるという位置になっている。富士山が見えるといっても手前の山に遮られて、本当に頭が見えるだけで、綺麗な裾野が見えるわけではないので、初めて見た人は「あれは何の山?」と尋ねかねない。
もう3年ほど鰍沢の墓地に行っていない。それまでは毎年、東京から中央高速を飛ばして山梨南で高速を降り、笛吹川の東側の堰堤の通りを突き当たりまではしり、富士橋を渡って52号線に入り、右折して寺へ行く。もちろん階段をえっちらおっちら上がるなんてことはしないので、山の後ろから、春になると桜でそれはそれは賑わうらしい大法師公園にあがり、そのまま通り過ぎて墓の上にでる。そこから桶を持って階段を下って墓に参るというわけだ。
なんで今頃、鰍沢の話なんかしているのかというと、昨日買ってきた「本の雑誌・3月号」をペラペラとめくっていると、沢野ひとしが「神保町物語外伝・夢二と望月百合子」を書いている。百合子は生まれそのものは東京のようだけれど、養子となって鰍沢で育つ。「二人は幼い頃からの知り合いだった」と書いてある。しかし、夢二は生まれは岡山だ。家出して上京したのは17歳の時だとウィッキペディアに書いてある。望月百合子は夢二より6歳も若い。百合子はあの時代の女性としては活発で、読売新聞に入り、1921-1925年の間、パリ大学に国費留学している。満州を経て、戦後は翻訳に専念。というんだけれど、幼い頃どこでどうこの二人が知り合ったのかはわからない。沢野ひとしはどこからそう知ったんだろう。
いつもの墓参りの時に細いクネクネ道を車で上がった上にある大法師公園にはこの二人の歌碑が建っているという。その上、街道筋の富士川町教育文化館には名誉町民である望月百合子記念館が併設されているというんだね。全然知らなかった。
沢野ひとしは記念館からほど近い、やはり街道筋にある国本屋という鰻屋に入っている。写真を見て、あ、これは見たことがある。次はいつ行かれるかわからないけれど、あるいはもう行かれることはないかも知れないけれど、チャンスがあったらはいってみよう。