ほぼ足りてまだ欲 その先

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品川駅



そうそう、品川駅は港区なんだよね。それで、目黒駅は品川区なんだよな。


昔の目黒駅はもう思い出せないんだけれど、品川駅の方は思い出せる。
今とは全く異なって、品川の駅もそんなに乗降客は多いわけではなかった。

 初めて知る話ばっかりだ。図書館から借りだしてきたが表紙に例のビニール・コーティングがしてあるものだから薄汚れて見えて、随分前の本かと思ったら今年の4月の出版だ。


改札口は高輪口と港南口がそれでもあったけれど、港南口は全く縁がなかったし、そっちには屠場があったことくらいしか知らなかった。屠場がどうしてあそこに作られたのか、詳しくは知らなかったけれど、東京に最初に屠場があったのは芝白金今里町でそれは江戸末期、1867年(慶応3年)だという。翌年は明治元年だ。それが1869年には築地に移設された。その後各地に作られた屠場が一緒になって港南口の東京市立芝浦屠場となったのが1936年(昭和11年)だっていうんだから、そろそろ90年になる。


 高校二年生の時の修学旅行で京都奈良へ行った時、わたしたちの組は品川駅から出発する修学旅行列車「日の出号」に乗るために、港南口に集合だった。多分それが初めて港南口に降り立った時だろう。工場街の全面灰色の駅前だったような気がする。それが1964年だ。長ずるに及んで会社員を辞めた時、当時出向していた会社が港南口にニョキニョキ建ったオフィスビルの一つに入っていて、そのフロアのトイレから窓越しに眼下にした品川駅の光景は忘れられない。随分時代が変わったんだなぁと絶句した。


 高輪口には良く行った。友人の何人かがここから目黒にかけて住んでいたからでもあるけれど、プリンスホテルがむちゃくちゃ広いボウリング場を持っていたことと、何しろスケートリンクがあったからだ。大学のアイスホッケー部の試合を見に行ったこともある。長ずるに及んでは室内テニスコートで接待テニスに興じたこともある。お客がテニスから、銀座へ行くというのである。やりたい放題の客だった。


 品川の駅は大崎よりに跨線橋の通路があって学校への往復にはもっぱらこっちを上り下りしていたけれど、田町寄りには地下道があった。この駅で降りる人たちはこの地下道を使う人がほとんどだった。地下道を上がってくると右手に高輪口の改札があるが、左手には植え込みがあったような記憶がある。当時の鉄道の駅ってのは、不思議だけれどこの種の植え込みのようなものがあるのは珍しくなかった。大々的だったのは東横線菊名駅だった。ホームから一番うしろの階段を上がるとそのまま横浜線のプラットフォームにいけるんだけれど、これを下ると改札におりる。その両脇が植え込みだったような気がする。

 高輪口を出て、右に行くと近海郵船なんかのビルがあるけれど、歩道橋を渡ると高輪プリンスへ上がる道に入ることができる。学生団体が資金集めのダンパをよく開いた旧館を通り過ぎて裏へ抜けられて、それを越すと今度は桜田通に向かって下り坂。その先に明治学院大がある。
 出て左の歩道橋を渡ると「京品ホテル」、その横が確かつばめグリルだったような気がする。今あるつばめグリルの場所ではなくて、もっと駅に近かったはずだ。そばのバス停から目黒行きのバスが出ていた。